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ハナレグミ 『だれそかれそ』 奇妙礼太郎トラベルスイング楽団 『東京ブギウギ』


行こうぜ、森林限界の向こう側へ



てなわけでよく聴いているカバーアルバム二枚。
貼ったツイートにも書いてる通りで、きっかけは映画の『きみの鳥はうたえる』。
これとてもいい映画なのだが、作中でカラオケシーンがあって、石橋静河が"オリビアを聴きながら"をうたう。
これがスカ調の軽妙なアレンジで、ただその享楽的な感じとせつなさの交差するイメージが、妙に映画にハマっている。
更にはフェイクを派手に効かせた独特の節回し。とても気になって調べてみると、これがハナレグミのカバーアルバムに収録されているヴァージョンであると。
それで、聴いてみよう、となり、そしたらコレも一緒に欲しいな、と二枚一緒にカートに入れたというのが今回のチョイス。
カバーアルバムだけにアレンジのネタバレを抑えたく、特に気になった曲を三曲づつ取り上げるかたちで紹介したい。
あと、あらかじめ書いとくと、この二人(一人と一組?)のカバーアルバムを特徴づけていると思うのは、歌の感触をグッとパーソナルなものに引き寄せているということ。
普遍的ポップソングを個人的なものとして歌うこと。
いわゆる「うまい歌」とはまるで異なるその独特極まる歌唱が、これらのアルバムを特別なものにしているように感じた。


ハナレグミ 『だれそかれそ』
"Hello, My Friend"
言わずと知れたユーミンこと松任谷由実の大ヒット曲のカバーでアルバムは始まる。
まさにポップソング中のポップソング、普遍の中の普遍、といた曲であるけれど、この曲の成り立ちは特殊だ。
94年のシングルリリース時、カップリングになっていた"Good-bye friend"のほうが、実はこの曲のベースになっている。
ただこれは内容がタイアップにそぐわないということで、サビ以外が書き直され、それがこの"Hello, My Friend"という形。
その「そぐわない内容」って何だったかというと、これは松任谷夫妻と当時親交があり、(僕の世代なら皆憶えていると思うが)レース中の事故で亡くなったF1レーサー、アイルトン・セナに捧げられたというもの。
それを思うとき、この曲のタイトルと何とも乖離した歌詞の意味はよく分かる。
「もう二度と会えなくても 友達と呼ばせて」。
「悲しくて 悲しくて 君の名を呼んでも / めぐり来ぬ あの夏の日 君を失くしてから」。
最もこれは実にユーミンらしいというか、そもそも初期の"ひこうき雲"あたりも秀逸なポップソングであると同時に反戦の歌でもあるわけで、そういう何か「フォークの残り香」みたいなものってこの当時のポップスの空気ではあったように思う。
と長々書いたところで、このカバー。
実におもしろい。
王道ポップスの豪勢なアレンジが施されたオリジナルと比較すると、あまりにも簡素で素朴なアコースティックカバー。
ギターのミスタッチも残る生々しさで、余計なリヴァーヴがないところは空間の狭さ(=距離の近さ)を感じさせ、歌声も全編、ポツポツと呟くように歌われている。
きわめてプライヴェートな録音に思える。
ただそれは、今まで書いてきた曲の成り立ちを知ると、ごく自然で、曲のひとつのあるべき姿としてのアレンジと分かるんじゃないか。

"オリビアを聴きながら"
そしてこれ。
バックを務めるのは東京スカパラダイスオーケストラ。
その意味では、アルバム中でもポップソングとしての完成度はとりわけ高いものと言える。
ただ、この節回し。
メロディーの大胆な崩しで全編生々しくうねる歌になっており、この辺、誰しも知る曲だからこその絶妙なアレンジ。
でもって、映画での石橋静河のカバーもこれの再現だったかと合点がいく。
しかしこうザ・バラードって感じの曲が、真逆の躍動感溢れるアレンジで。
そこで「ああ、やっぱいい曲だな」って思えるのが、曲としてどんだけよく出来てるかっていう。

"ラブリー"
これまた言わずと知れた名曲。
ただ、だからこそというか、やはりこの人がやるとアレンジで強烈なフックを加えてくる。
せーののスタジオセッション一発録りがそれ。
アカペラでギターと即興の掛け合いをしながら曲が始まる。
スタジオの空気がそのままパックされたようなホワイトノイズの豊かな手触り。
楽器陣が徐々に徐々に加わり、弾ける多幸感に満ちたメロディ。
ここでもハナレグミの歌唱は派手にうねるような節回しで、自由にメロディを繋いでいく。
それでふいにこんな歌詞が飛び込んでくる。
「いつか悲しみで胸がいっぱいでも / OH BABY LOVELY LOVELY 続いてくのさデイズ」。
最近、6年ぶりの新刊として三巻が出た『花と奥たん』読んでて、ちょうどこの歌を思い出してた。
やっぱこの曲も、ポップスという普遍性とパーソナルな悲しみのあわいに生まれた曲だったのだろう。





奇妙礼太郎トラベルスイング楽団 『東京ブギウギ』
"THE TENNESSEE WALTZ"
バンド名の通りというか、このカバーアルバムではJポップのほかにジャズスタンダードやアメリカントラディショナルも取り上げられている。
その中でとりわけ印象深いのがこの曲。テネシー・ワルツ。
これもまた名曲として知られている曲だけど、その内容がおもしろい。
恋人とテネシー・ワルツで踊っていると友人が来たので、紹介したら、その友人に恋人をとられたという。
奇妙礼太郎の歌声は、つねに酔っぱらっているような独特の調子があって、これが良く作用している。
こういう歌はいわゆる「うまい歌」という感じで歌われるよりも、こういうトーンを加えられることで、「生きた歌」というか、本来そこに込められているエモーションを正確に伝えるようになる。
要するに、こういうカバーアルバムとか、いろんな人のものを聴いていて、うん?って思うのは、なんか「名曲だからうまく歌わなくちゃいけない」みたいな謎のやつがあって。
でも、そうじゃないじゃん。
名曲ってことは、最良の形ってのはもうすでにあって、それをなぞるって愚行であって。
それよりも、自分が思ったことを思ったふうに、なにか風呂場で口ずさむみたいに歌うことが、名曲をカバーするということの最良の形なんじゃないか。
少なくとも自分はそれが一番好きだな。

"赤いスイートピー"
1982年の松田聖子の歌唱がオリジナルで、日本のアイドルソングを代表する一曲。
つまりこれもまたポップス・オブ・ポップス、王道中の王道ポップソング。
ただ、自分に関して言えば、このヴァージョンを聴いた時に初めて、あ、いい曲だな、いやいや、メチャクチャいい曲だなこれ、って思ったのだ。
思ったってか、泣いたのだ。
アルバム中でも目立ってそうだと思うのだけど、この曲での奇妙の歌唱は酔っぱらったオヤジそのもの…とまで言うと失礼だけど、何というか、「めちゃくちゃ歌のうまいオッサンがガンガンに酒を入れて号泣しながら歌う懐メロ」状態のそれ。
震える歌声にメロディーを派手に崩され、過剰なるエモーションで装飾されたそれは、オリジナルは老いたロック・シンガーのソロですとも言えば納得しそうになるほどで、少なくともアイドルソングとは全く聴こえない。
ここに管楽器とオルガンの重なる場末感漂うオケも効きまくっている。
やっぱりこれだと思うのだ。
オリジナルの再現なんてカバーにおいてはどうでもよくて、重要なのは、その楽曲にまつわる自分の感情をこそ再現すること。
だからこのカバーはこんなにも汚くて美しい。

"愛の讃歌"
最近、『旅のおわり 世界のはじまり』という映画を観た。
黒沢清の最新作。
正直言って、いや文句なしに、今年ベストクラスの傑作だと思う。
今年この先、これを超える映画を観られるのだろうか。
そこにおいてこの曲が、印象的にリフレインし…今日ここまで書いてきたまさにそのこと…、世界=普遍と私=パーソナルを接続する、という映画の中の物語装置として最大の機能を担わされている。
そこでは「世界」を「私」の中に捉え直すにあたって、「あなた」との間にある距離としてそれを想像しなおす、という操作が行われる。
改めて、ポップソングとはつまるところ、それだろう、と思う。
誰もが口ずさむが、その口の端に乗るたびに百人に百通りの、パーソナルな情景や感情と結びついて分かちがたく固有のものとなる。
誰もが結局は切ないほど個である、という約束事を思い起こさせることによって、個と個を分け合わせるような、そんな機能を担うのが、いわゆるポップスの名曲というものじゃないかと思う。
今日書きたかったのはそれで、奇妙礼太郎の酔っぱらったような歌唱はいつもそれを思い出させる。
この"愛の讃歌"ってまさに「名曲中の名曲」、「究極の楽曲」みたいに言われる曲だけど、内容は、そんな圧倒的な、超越的な普遍性と真逆の、無限遠の彼方にあるような、きわめてパーソナルな領域へと一直線に向かっている。こういう風な。
ビルに飛行機が突っ込もうが、大きな地震が来ようが、そんなことどうってこたあないんだから。
朝目が覚めてあんたのぬくい掌の下であたしの身体があって。
それで充分。それで全部なんだよ。
あんたがそうしろって言えば
金髪だって染める
世界の涯てにまでいく
どんな宝物だってあのお月様だって盗むし
祖国だって友達だってなんでも全部裏切るクソなんだよそんなものは。
あんたがそうしろって言うなら誰が何て言ってあたしたちのこと嘲り笑ったってあたしは平気なんだどんな恥ずかしいことだってするからね。
そしてずっとずっと長い時間が過ぎてその時が訪れてそいつが来てそう死があたしからあんたを引き裂いていくとしたってそれも平気よ。全然まったく何でもない。

だってあたしも必ず死ぬんだから。

そうやって死んだあとにもあたしたちは手に手を取ってあの遠くどこまでも広がる泣けるほど濃い青の中心に座ってそして永遠の愛をもう一度約束するの。
あの遠くどこまでも広がる泣けるほど濃い青の中で。

なんの問題もない。

そして神様も、そういうあたしたちを祝福して、永遠に、永遠に祝福して下さるでしょう。





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プリンとカルボナーラと私、それから京アニと音楽について

何を言おうが虚ろな感じがして、ツイッターにも触れずにいたけど、ここ数日のことを書く。


あの7月18日のあと、体調を崩してしばらく寝ていて、治ってから何本か映画を観に行ってみたものの、まるで感情が動かない。
ただその事自体には少し悲しくなって、それだけに映画を観るのも何だか辛かった。

しばらくして、ネットフリックスで『クィア・アイ』の新シーズンの配信が始まった。
料理やファッションなど様々な分野のプロフェッショナルであるアメリカのゲイの5人組が、人生に行き詰まった人々の助けを求める声に応じるというリアリティ番組。
それを流しっぱなしにしていると、負傷で除隊になった帰還兵が主人公のエピソードが始まった。
除隊で自分のすべてが否定されたような欠落感と劣等感に苦しんでいて、自分をごまかすように仕事に打ち込んでいる。
この男に料理担当のゲイのアントニが教える料理が、カルボナーラ。

とても簡単そうに見えて、作りたいと思った。
にんにくを潰して刻み、パスタを茹でておく。
バラしたブロックベーコンをオリーブオイルで炒める。
これはパンチェッタの代用。
適当なところでにんにくを入れる。
香りがたったら火を弱めて牛乳を注ぐ。
半欠けのコンソメを入れ、溶けたらピザ用チーズを加える(パルメジャーノの代用)。
全体が混ざったと思ったら火を止めて、卵黄を加える。
ここからは手早く、卵が固まらないうちにかき混ぜる。
皿にあけて黒胡椒を好きなだけ振り、完成。

牛乳とチーズ、卵黄のバランスによって様々に様態が変化するので、最初はうまく出来なかったけれど、三回も作れば思い通りになった。
少し飽きたらペペロンチーノを作った。これは完全に手抜きで、パスタを鷹の爪とにんにく、オリーブオイルで炒めただけの代物。

まあそんな風にしていると、ある時点で牛乳の賞味期限が近づき、また卵の個数もだぶついてきた。
この組み合わせから連想したのが、プリン。
プリンを作ろうと思った。
何が悲しくて独居中年男性がプリンを?と思うのだが、自分でもよく分からない。
よく分からないけれど、あえて述べるなら、女子だから、だろうか。
私はプリンを作る。
プリンを作るのは女子である。
すなわち、私は女子である、が成り立つ。
デカルト的な問答というと何か大袈裟だけど、現にしてそう考えるほかない。

プリンはシンプルだ。
でありながら、プリンシプル=基本・根源という通りで、プリンは全てに通ず。
プリンなくしてローマは成らず。
熱燗用グラスでも何でもいいが、耐熱の容器に、牛乳、砂糖、卵黄を入れ、よくかき混ぜる。
そして、これは意外と思うかもしれないが、半欠けのコンソメを加える。
もちろん嘘だ。
とにかく、牛乳、砂糖、卵黄(それからあればバニラエッセンスを数滴)を撹拌したら、ラップをかけてレンジで500w2分半。
取り出したら、濡れたタオルでくるむでも、近所の河川にさらすでもいいが、とにかく冷ます。
常温に戻ったら冷蔵庫へ。
ツイッターをだらだら眺めてから風呂に入り、あがる頃には固まっている。

なんとなく砂糖を加熱する工程が怖くてカラメルを省いたので、あの独特の苦味とのコントラストがなく、プリンはただ甘かった。
薄っぺらな味とも言える。
でも、この世界にも少しは、ただ甘いだけのものがあってもいいなと思った。
挑戦とか努力がまっすぐに報われたり、打算なくただ素直に誰かを好きだと思えたり、そういうことが。

自分にとって様々なきっかけになった『AIR』、それから『けいおん!』、震災の最中にあった『日常』、コメディチックな萌えアニメでありながら明確に分断の時代へと向けられていた『小林さんちのメイドラゴン』、そしてあの『聲の形』は、やはり忘れられない。
『聲の形』が衝撃的だったのは、京アニ的なもの=萌えアニメの言語を用いて、確かに「映画」が紡がれていたこと。萌えアニメが自律する「映画」になっていたこと。
限られた文化の中でのみ通ずると思えていた言語が、唯一無二のユニークな手法…ノイズミュージックを用いて「聴こえ」の多様なあり方を鑑賞者の感覚にストレートに訴えるものとして提示する…を経由して、映画という一段階上の普遍性にアクセスする。
言語を一段階上の普遍性へと昇華する。これを喩えて、こう言ってもいい。
京アニは萌えアニメを音楽にした。


『クィア・アイ』で、自分の作ったカルボナーラを食べながら、帰還兵の男はこう言っていた。
「マックに行かず、ほんの10分か15分の時間をかければ、努力は実る」。
料理はシンプルでいいと思った。
自分でつくったものが旨い、という、直流回路で自己肯定される感じ。
落ち込んでいるときにはよく効く。
登山も同じようにいいと思う。
登山の好きなところは、シンプルに即物的に、憧れた場所に辿り着けるということ。
山容を見上げるようなところに立って、やべえすげえ景色、あんなとこ行けるのかな、オレ、って思ったその場所に向かって、一歩一歩進む。
それで実際に、そこを踏む。
ごく単純な自己肯定の回路がある。
その混じりっ気なさ、直線的な構造が好きだ。
オマエ凄いよ、って自分に言う、そこに変な余地がないっていうのかな。
だから今日、無心で登ってるとき、なにか有り体な言い方だけど、単純に癒されている感じがした。





瑞牆山は曇りで展望は無し。
ただ目前の光景だけでも圧倒されるスケール感がある。
良い山。
山頂までは天気が持ったけれど、下りは少し雨に降られる。
高いお守りになっていたレインウェアが初めて役に立った。
金峰にもかなり興味があって、いつか天気の良い連休があるなら山頂付近で一泊して二日がかりで登りたいと思っている。

長い梅雨がようやく明けるそうなので、夏は日光の女峰、河口湖の十二ヶ岳、尾瀬の田代山~帝釈山か至仏山、もし連休があったら焼岳、宇多田ヒカルが登っていたアサヨ峰とか、どこか二ヶ所でも三ヶ所でも行ければと思う。
まだ計画だけだけど。
いつもこの時点では「いや、オレ、こんなの登れるの?」って思ってて、でも実際にただ一歩一歩の積み重ねとして、山頂、来ちゃった、みたいなことが、登山の好きなところで。
繰り返しになるけど。


自転車のドミノ倒しに巻き込まれて動けなくなっている人を助けたり、夜道でぶっ倒れて気を失っていた人に救急車を呼んだり、最近なにかそういう場面が多いんだけど、っていうかこれは人知れず人助けしているのを自慢したくて書いているんだけど、たぶんそういうときにごく自然に動けるのって、山を登ってることの効用でもあって。
山って不思議なコミュニケーション空間で、そう、こういうことがあった。
鋸山に登ったときのこと。
山頂付近ですれ違った人に挨拶したら、怪訝な顔をしてこっちを見た後、目を反らした。
この鋸山って、麓から歩く以外にロープウェーでも頂上に行けるのね。
必然、山頂近くでは登山者とロープウェー利用の観光客が混ざってくる。
で、登山者って、すれ違うとき必ず挨拶する。
これには遭難時に他の登山者の印象に残ってるように、とかいろいろ理由があるんだけど。
でも、普通に平地だと知らない人に挨拶するのは変な人じゃん。基本的に。
山では自己責任が基本で、「連れてってもらう意識の人」って登山者の間では嫌われるタイプとは言うけど、実際に山にいくと、平地よりもよほど濃密な他人同士のコミュニケーションが生じる。
説教くさい話になってたら申し訳ないんだけど、ごく自然に助け合うみたいなことがある。
これで思うのが、山はMMORPGに近い空間だということ。
MMORPG的な空間に固有の面白さは、そこは基本的に、他人を助けることが無制限に許可された空間だということ、これだと思っている。
日常の中では非常にハードルの高い「人助け」という行為を、いくらでも、好きなだけやって良い、その快楽がMMORPGを駆動していると考える。
その余韻が平地に降りてもまだ残ることが、山に登ることの「良さ」のひとつだよなって思う。
で、他者を助けること以上に気持ち良いこと、ってそうそうない、っていうか、こう言ってよければ、他者を救うことを通して救われているのは実は自分の心である、ということを、今日また改めて感じていた。
いまこういう社会の、世界の中で、綺麗事だろって何回言われようが、それだけは普遍的に真だと思えるし、するべきなのはそれなんじゃないか、って何となく思っている。


ここまで読んで頂いてありがとうございます。


7月18日の事件で亡くなられた方々のご冥福をお祈りします。
また、被害に遭われ、現在もなお治療中の方々の、一刻も早い快復を願います。





山を降りると頭がすっきりしたような気がして、電車の中で書いていた山行の記録
今回はこれをもとに構成しました

最近読んで面白かった本

最近ってか昨年末くらいからの感じだが…


『人はなぜ宇宙人に誘拐されるのか?』 エリエザー・J・スタンバーグ
こんなタイトルだけどオカルトでなく脳研究・神経科学の本。
専門的なところはなく、根気があれば読める。
タイトル通りのアブダクションの話からイメージトレーニングのメカニズム、先天的に盲目の人はどんな夢を見るのか…?等、幅広いトピックに触れながら、意識と無意識、虚偽記憶、脳の奇妙な機能について書いている。
例えば金縛りにあったときに部屋の隅にうずくまる人影が…みたいな話があるけど、そこでなぜ脳が幽霊を要請してくるかっていうことだよね。
この本で述べられているのはある意味不合理で奇妙としか言いようがない理屈なんだけど、結局その合理/非合理みたいな価値判断が実は恣意的なんじゃないか、ってことも考える。
脳について考える本は、迂回しつつもある面で哲学書にならざるを得ないような気がしている。



『第三脳釘怪談』 朱雀門出
ここでは怪談本には触れずにいこうと思っていたけど(キリがなくなるので)、これは書いておこう。
応援したい本だから。
「第三」とある通りシリーズの三冊目になる。前の二冊は紙の本で出ていて、これは著者の自費出版、電子のみ。
300円という破格。
この人は、現代怪談の書き手の頂点の一角だと思っている。
自分の中で、我妻俊樹さんや黒史郎さんに並んで好きな作家さん。
なにか怪談大好きというとおばけ好きなのかと思われるけど、自分の場合、おばけ、幽霊というものに特別な興味はなくて。
説明のつかないこと、世界の歪んだ断面、あるいは、「おばけ」「幽霊」みたいな言葉で切り取られているものの属する全体を想像したときに、その「おばけ好き」の人によって「切り捨てられている部分」のほう、名前のついていない煮凝りのような、茫としたものの中にこそ面白いものがあると信じる。
上で挙げた三名の作家の描いてきているのって、まさにそういうものたちで。
「おばけ」を扱うという話になっても、その枠のない視点から話を掬いあげることで、独特の手触りになっている。
この本に収録されている怪談のタイトルは、"変態するヒトの話"、"ジムル波"、"俺の地獄"、などなど。
内容に触れるなら、「子どもの頃エレベーターの中に身体を折り曲げたサイが詰まっていたのを見た話」とか「まわりに何もない寂れた道路の脇に設置されている、タツノオトシゴを販売している自販機の話」とか。
どうですか?読みたくなりませんか?

同著者の『忌田の枝足』は短編連作の小説で、こちらも生物学的アプローチで語る怪談という実に面白い試み。おすすめ。


『ぽつん風俗に行ってきた!』 子門仁
タイトルの通りで、ベテランライターの著者が「なぜこんな場所に?」という立地の風俗店を訪れていく。
アマゾンレビューにあったけど「風俗版 孤独のグ〇メ」というのが一番簡潔な説明になるように思う。
この手のものってあまり文章が良くないような偏見があるけど、これは実に端正で読みやすい。
アプローチも独特で、風俗店というものを多面的に捉える視点が面白い。
なぜそこに風俗があるか、という点は、地史学的な、アースダイバー的な視線から見えてくるものがあったり。
そうして歴史を知れば、一見突拍子のないように見える奇妙なロケーションの風俗店が、どこか奥行きを持って見えてくる。
必然、僻地のようなところも多く訪れることになり、不思議な旅情もあったり。
ちょっと、いや、かなり変わった旅ルポエッセイとしても実に趣深い一冊。



『昼休み、またピンクサロンに走り出していた』 素童
一見青春小説のように見えるタイトルだけど、よく読むと違うと分かる。よく読まなくても分かる。
いわゆる風俗レポだけど、この著者の文章力には目を見張るものがある。
読んでる間中笑いのツボを痛打され、胸が苦しくなった。
デリヘル店のホームページの嬢の紹介文を自然言語解析ソフトで研究し、その成果をサイトで発表したところタモリ倶楽部に呼ばれて今回の本へと繋がった…っていう著者の経歴に何か感じ入るものがあれば読んでみると良いかと。



『社会学史』 大澤真幸
タイトルから想像する内容だと、たんに教科書的なそれというか、年表があって、順に説明…みたいな。
この本は全くそうなっていなくて、思想と理論を系譜立てて説明する。つまり、この思想とこの思想はこのように繋がっている、という、有機的な接続で思考を刺激するような構成を取っている。
そこに著者の近年の関心、偶有性、資本主義、歴史記述の恣意性、など…を大胆に絡ませた読解を展開する、独特の内容になっている。
ある種、主観的な歴史の捉え方ともいえるけど、だからこそ自分は面白く読めたし、スルスルと入ってくるように感じた。
全体を読み通してみると大きく輪を描くような歴史観を構成しているというのも面白いところで、それって何かヴィルヌーヴの『メッセージ』みたいなんだけど、思えば『革命が過去を救うと猫が言う』のような著者の別著作ではまさにそのような歴史観について述べていた。



『「最前線の映画」を読む』 町山智浩
みんな大好き町山さんの最新映画評集。
2010年代の映画を幅広く取り上げて時代を切り取る、まさに今ここの映画批評集となっている。
特殊なのは、「映画の紹介本」ではないということ。
基本的に、その映画を観たこと前提の解説的批評を集めたものとなっている。
あの描写は、この謎は、どう解釈するのか。
扱っている作品はどれも話題になったものだから、映画館に通い詰めるアクティブな映画好きなら大半は観たことあるはず。
しかしこの人の映画評は読み物として抜群に面白いよな、と改めて思う。
『沈黙 サイレンス』、『イット・フォローズ』の評なんか実にエモーショナル、抒情的でもあって、とくに前者のほうは読んでいて思わず泣いてしまった。



『辺境メシ ヤバそうだから食べてみた』 高野 秀行
さっきまでテレビで「ウルトラハイパーハードボイルドグルメリポート」見ていたんだけど、やっぱ食って面白いね。
つまるところ、生活のかなりの部分ってここから見えてくる。
というわけで本書は、世界中をまわってあらゆるゲテモノを食べてきた著者による「珍食・奇食リポート」。
たとえば、こんな一言が登場する。「脳は、もう飽きた」。
最初のエピソードのタイトルは「ゴリラを食った話」。
虫食系のエピソードはどれも鉄板の面白さ。イタリアのレストランで5年働いたというタイのシェフが作る「虫イタリアン」とか。何してくれるんだよ、っていう。
ソマリ人の大好きな「噛むほど気持ちよくなる草」カートをとにかく食いまくる話など、ヤバいエピソードも次から次へと登場する。
ただただ、ムチャクチャ面白い。
そういえばオレも今までの人生で何度か虫食の経験がある。
カイコ=蛾とか、シロアリ=ゴキブリとかそんな感じ。



『未来のセックス年表 2019-2050年』 坂爪真吾
タイトル通りの思考実験の本。
書いているのは性風俗産業周辺の社会課題解決に取り組むNPOの代表をやっている方。
常に今この社会で起きている問題を出発点にしつつ、テクノロジーや制度がこれからの性愛をどのように変えていくか?ということについて、多様なトピックから検討する。
「パパ活」の行く末、後妻業スレスレの「ジジ活」…だとか、日本で夫婦別姓や同性婚は可能になるか?だとか、VR、ブロックチェーン婚、AIによるマッチングアプリ…。
読んでいて思うのが、性愛という切り口から考えると残酷なほどはっきりするけど、結局いまこの社会って「終わりゆく社会」であって。
よほどの革命が起きない限り、少子高齢化・出生率低下で社会は終わるだろうと。
でもたぶんそれは、性愛が生物機能としてじゃなくて、(もしかしたら「本当に人間らしい」?)完全に快楽のためのそれになるということかもしれなくて。
黄昏ってやつで、たぶんその時間は短いんだけど、なかなか面白い時代になりそうという気もしている。



『ゆるく考える』 東浩紀
おなじみ哲学者のあずまんのエッセイ集。
いくつかのパートに分かれているけど、様々なトピックについて短い文章で綴っている序盤、福島の原発を訪れた際のレポートの終盤が特に面白い。
例えば、育児についてこんなことを書いている。
普段われわれは、「今回ダメなら次の機会に」というような感覚で生きている。
夏に休暇を取れなければ冬に取るし、今年花見に行けなければ来年に行く。
あらゆることに反復可能性…次の機会…があるという前提で生きている。
でも子供は、それは欺瞞だと気付かせる。
三歳の海と四歳の海は違う。小学校の入学式には一度しか出席できない。
人生は短くあらゆる瞬間が唯一のものだということを、子供は思い出させる。
それが子育ての喜びであり辛さでもある、と。



『執念深い貧乏性』 栗原康
これもエッセイ集…ということになるのかな?
著者の栗原さんは政治学者で、専門はアナーキズム。
それだけあって、文章もとにかく破壊的。
酩酊したような独特のグルーヴ感があって、笑うしかないイカれたエピソードもふんだんに仕込まれているのだが、全体通して、権力と自由、支配と被支配、主体性といったことについて、うまいこと思索へ導かれる。
特に好きなのは韓国の大学へシンポジウムで呼ばれた際のエピソード。
友人のDという人が現地にいて、この人もアナーキストなのだが、久しぶりに会ったので、何の仕事で暮らしているのかという意味で"What are you doing?"と訊いた。するとDは答える。
"Nothing."。
ナッシング。すげえ。
このDという人は徴兵制のあとそのまましばらく軍隊に残って特殊部隊に所属していたことがあり、そのおかげでサバイバル能力が異様に高くなったらしい。
家も空き地に勝手に作ったとのこと。
で、この人が今度、山形に映画祭で来るという。手伝ったドキュメンタリー映画が出展されるからと。
で、どこに泊まるのか訊いてみた。
そしたら、こう答えたそうだ。
「土」。


…そんで今は、この本を読んでいる。


『忌み地 怪談社奇聞録』 福澤徹三、糸柳寿昭
お馴染み実話怪談の名手で小説家でもある福澤徹三さんと、実話怪談を題材に怪談ライブを頻繁に行っている「怪談社」の糸柳寿昭さんの本。
怪談社のライブは自分も何度か見ているけど、実に見事な語り。いわゆる稲川的な語りとは異なる、もっと現代的なアプローチの怪談語りというか。
で、この本、面白いのが、実話怪談の取材、というのを題材にしている。
どこに行って・どのような人から・どのように怖い話・不思議な話を聞きだすか。
その取材の過程で、ダークツーリズム×アースダイバーとでもいうのか、土地の暗い・普段語られることのない側面、みたいなものが見えてくる。
怪談を土地というアプローチから考察する、吉田悠軌『怪談現場』シリーズや小野不由美『残穢』あたりと繋げて語れそうな一冊。
めっちゃ面白いっす。


しかしこうしてみると自分は読書に占める小説の割合がかなり少ないというのが分かる。
そっちを掘って良い本を探してみるのもいいかもですね(雑なまとめ)。

2019上半期 良かった映画・マンガについて

今年の上半期観た映画は96本で、昨年からだいぶ減ったけど、これは5~6月は使える時間をほぼ山を登ることとその準備に使っていたため。
暑さ寒さが本格化する時期は山登りは休むので、そのへんでまた増えたりするんじゃないか。
内訳で劇場新作53本(微妙に配信オンリーの新作もあり)、配信で見た旧作43本。


新作ベスト
『希望の灯り』 🏆️
『ギルティ』
『コンジアム』
『バンブルビー』
『シャザム!』

旧作ベスト
『追想』 🏆️
『ブルー・マインド』
『ぼくの名前はズッキーニ』
『きみはいい子』
『さよなら、僕のマンハッタン』


『希望の灯り』、これほんとに地味な話で。でもあらゆる意味で琴線に触れた。触れまくった。
その理由っていうのは書けることも書けないこともあるけど、ひとつ書くと、『ノッキン・オン・ヘヴンズドア』という同じくドイツの98年の映画がある。これ、自分のオールタイムベストのうちの一本なんだけど。
これが死病に冒された男ふたりがギャングから盗んだ車で海を目指して旅をするロードムービーで。
片方の男が、海見たことないんだよね、と言い、もう片方が、え、それマジやばくね、オマエ駄目だってそれは、と。え、なんで。なんでってオマエ。「天国じゃ、みんなが海の話をするんだぜ」。
人生最後の願いで、一生に一度、海を見たいと願う、これって我々からすると理解しにくいんだけど、地図を調べればわりと理解できる。ドイツってぜんぜん海がないんだね。それで、ハネケの『セブンス・コンチネント』とかもそうだけど、海を望むと。
『希望の灯り』はベルリンの壁が崩れた直後の旧東側の人たちの話で。分断は終わったけど格差はあるし、古い人たちは資本主義マナーに馴染めなかったりする。みんな自由、自由って言うんだけど、実際にはそれは自分の手元まで行き届いてはいない。
いわばスケールダウンした自由や平等を分かち合うような描写というのが多数出てくる。
そこで海がすごく大きな意味を持ってくる。
悲しいけど悲しいだけでもなく、優しいけど優しいだけでもなく、平熱の世界にわずかなお伽話を添えてくるというか。

『ギルティ』はソリッドシチュエーション系の大当たり来たなっていう。音でのアプローチという斬新さに終わらない、想像させる背景のドラマ。それから自分の大好きな映画で『リミット』が優れていた点がまさにここなんだけど、映画の中に完結した話じゃなく、いまこの世界の現実へと開かれていること。極限の閉鎖空間から。
『コンジアム』は大好きなジャンルPOV/ファウンドフッテージで驚かされた一作。ここでちょっと書いた。
『バンブルビー』、『シャザム!』は大作系から。
『バンブルビー』は本当にパーソナルな理由というか、まさにドンズバというところで、あっ、映画の中にオレがいる、っていう。オレが苦しんで、オレが笑って泣いて、オレが救われてたっていう。音楽の位置づけも素晴らしい。
『シャザム!』、これヒーローコメディと思って観に行ったら少年少女のための『万引き家族』見せられたという一作。


ツイッターでアツく語ったのでこのツイートから続くツリーを見て下さい。
「僕たちは里親だよ!
きみのスーパー・パワーはなに?」。

旧作で、『追想』ね。
昨年のイギリス映画。邦題からして、地味だな~って思ってチェックしてなかったんだけど、これがもう本当に良かった。
結婚式挙げたカップルがそっから6時間で別れるっちゅう話。
構成がトリッキーで、その1962年の6時間を軸に何度か時間軸がジャンプする。
60年代に激しく変わっていったもの、音楽を参照しながら物語が語られる。
ステレオ形式のオーディオの普及。ロックンロールの誕生など。
今日ちょうど観てきた『COLD WAR』もそういう映画だったな。
『追想』も移りゆく時代をワーッと駆け抜けていく。そうして思い出してた歌があって。
「恐いモノ知らずで 時代ははしゃぎまわり
僕と君のすごしたページは 破り去られ
歴史には価値のない 化石の一つになるのさ」
ああ、それでも、
「君と出会えて良かったな」。

『ブルー・マインド』、昨年末にベストを出した直後に見た映画で、そのタイミングでメチャ良いの来ちゃったっていう。
昨年は百合映画が多数公開されて、その中で百合ホラーというのもあって例えば『テルマ』とか。
まあそういう状況の中で、ユリデミー賞決めるとしたらこの一作。
なにか殺菌消毒されたような、きれいなだけの百合ってあまり好きではなくて。それってオタクの信仰の中にだけ存在する世界ですよねっていう。
そういうとこで、美しいファンタジーとしての百合を描くならこういうことなんじゃないか、って思った。
『ぼくの名前はズッキーニ』、『きみはいい子』、洋邦の子ども映画。『シャザム!』に通ずる孤児映画でもある。
『きみはいい子』の中盤での驚きのシーン、忘れ難い。『フロリダ・プロジェクト』なんか思い出すのと、西川美和監督が『永い言い訳』のときに言ってたことで「子どもの演技を演出するのは恐いし罪悪感がある」と。やっぱ子どもをスクリーンに一番美しい姿で映す方法ってこれなんかなっていう。
『さよなら、僕のマンハッタン』。『ギフテッド』に続いてマーク・ウェブ監督の小規模映画。やっぱ画作り、特に色彩センスがあまりにも良すぎて。すべてのカットが絵画みたいになってる。この世界はいつもままならなくて愛おしいというような、苦く甘いストーリーも最高。



マンガのベストも何となく選んでみた。
年間ベストと同じく、基本的にその年に始まったもの・終わったものをその年のマンガと位置付けている。
今回はみんな始まったほうの作品になった。
ただ、旧作枠みたいな感じで今年初めて知って読んで「なんでこんな最高のものを知らなかったの…」って後悔したやつもひとつ入れている。
あと最後のが昨年末に一巻出てるんだけど気付かなくて年明けてから読んだやつ。

三門ジャクソン 『スカイフォール 消し尽くせぬ夏の光』 🏆️
谷口菜津子 『彼女と彼氏の明るい未来』
神崎タタミ 『モノノケソウルフード』
樫木祐人 『ハクメイとミコチ』
菅原亮きん 『猫で人魚を釣る話』

『スカイフォール』は広島平和記念資料館、いわゆる原爆記念館を修学旅行で見学していた高校生が、原爆投下の日の朝に跳んでしまうというタイムリープもの。
タイムリープでも、異世界転生でも、読むときのふたつの軸があって。ひとつは、何が違うのか。デジタルとアスファルトの現代から剣と魔法の世界に跳ぶ、みたいな言い方がそれ。もうひとつは、何が同じなのか。これってあまり意識されないところなんだけど、より重要なポイントなんじゃないかと思っている。
この話ではそのことをこう表現する。
「3.11のときと同じだ」。
王道としてのひと夏のボーイミーツガールでありながら、間接的な被災者の主人公が震災を自分のうちに引き受け直すという話にもなっている。
大澤真幸の『憎悪と愛の哲学』でも3.11と原爆を重ねて論じていたので、何か自分の中で検討したい主題というのもあり、興味深く読んだ。
夏が薫るような絵柄や個々のエピソードの問いかけてくるものの重みも読みごたえとして返ってくる感じ。

『彼女と彼氏の明るい未来』、これも変化球のタイムリープものか。
「今 目の前にあることが真実じゃだめなの?」。ってそれはお題目としては分かるけど…分かるんだけど。
セリフまわしがことごとく良くて印象に残る。
『モノノケソウルフード』、いわゆるメシ食うタイプのマンガってもういいよっていう、メシだけに食傷気味になってたけど、美味いことの表現が巧みで、またチャンポンにするネタが良い化学反応を起こしてて、ついでにこのマンガならギャグセンも最高で、っていうそこちゃんとしてるとまだ面白いものは出てくるという。
「ミッシェルのキャンディハウスの初回盤みたいなアー写」って絶妙な送球。
『ハクメイとミコチ』、アニメは見ててスゲー良かったんだけど、恥ずかしながら原作は今年初めて読んだ。読んで、一瞬で全七巻揃えた。何といっても徹底して作り込まれた世界観と異様なまでの情報密度の作画。手前-奥軸の移動、位置関係というのがここまで強調されているマンガもそうそうないように思う。それって常に細かな背景が存在してなければ成り立たないので。そのことで独特の立体感を持ったマンガになってる。
世界観の作り込みは意味の面での奥行きになっていて、ぜんぜん異なる文化を持った社会や人々の営みを覗き見るような面白さがある。
『猫で人魚を釣る話』、昨年末に一巻は出てたんだけど、今年になってから知った。
トリッキーで独創的なマンガ表現を次々投入してきて、最後の最後までページをめくるのが楽しい作品。それだけでなく、ここぞというところではっとするような美しい瞬間を見開きに捉えてみせる。例えばミシェル・ゴンドリーの映画が「マンガっぽい」なんて言われたりするけど、その「マンガっぽさ」をドラマを語るツールとして徹底的に突き詰めればこういう作品になるのかもしれない。


あと文字の本のベストも書こうかと思ったけど、これ思ったより絞れなくて、アレだから最近読んだ良かった本みたいな感じでいずれ記事作ろうと思う。

とりあえず最近はなぜかジムのプラモ作ってます。
ではまたいずれ

Tania Chen with Thurston Moore, David Toop, Jon Leidecker 『Electronic Music for Piano (John Cage) 』

https://yamap.com/users/1003665




あのー、これ何だろう?
自分、何なんだろう?
って思いながら、ひたすら山登ってますね笑





Tania Chen with Thurston Moore, David Toop, Jon Leidecker 『Electronic Music for Piano (John Cage) 』

2016年の録音で最近出たやつ。
ジョン・ケージの1964年のスコア、"electronic music for piano (john cage)" ピアノのための電子音楽は、ケージによる数多のピアノ曲のスコアの中からピアニストが部品を選び出して、他の演奏者に電子機器を用いた演奏を指示していく…というものなのだが…。
ピアノを担当するタニア・チェンはケージの楽曲を独自に解釈して演奏した作品を数多くリリースするアーティスト。
この人が集めたのが、おなじみギターのサーストン・ムーア、フライング・リザーズのデヴィッド・トゥープ、何だかよく分からん人ジョン・レイデッカー。
レイデッカーはミキサー等を扱っていて、トゥープは一人別録りで例によってさまざまな楽器や非楽器を用いて参加している。

これが蓋を開けると70分1トラックというシロモノなのだが、聴いてみるとちょっとそういう感じでもない。
なんかブツ切り的に、いきなり演奏が切断され、前触れなくノイズの暴風が吹き荒れ、文脈というものがないかのようにプリペアドピアノの物音がトンと置かれる、ような感じで、しかも無音部分が多い。
いきなりバツッと音が切れて、そのまま数分鳴らなかったりする。
たぶんこの辺りは、ミキサーの裁量が大きいんだろうな。
終わりも何となく聴いてると分からず、あれ、ずっと演奏始まらないな、あ、終わったんだ、という感じ。
で、最初ひとつなぎの演奏をバラバラにカットアップ的編集したものなのかな、と思ったのだが、リアルタイムのライブ演奏かもと思わせるところが端々にあったり。
静かなところで聴いていると演奏者の息づかいや椅子の軋み、アンプのノイズが聴き取れるとか。
ピアノ中心だからサウンドの手触りとして統一感はあるけど、まるっきり曲という感じがしない演奏。
まったくの無よりも、スコアというかルールというか、秩序から無秩序を出力しようみたいなことは、こういう現代音楽のひとつのベクトルではあるんじゃないか。
なんかヘッドホンでなくオープンなスピーカーで部屋で流してると良い感じになるアルバム。
カッコいいと思います。


 

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