KAN 『la RINASCENTE』

KANはね~~~めっちゃ好きなんですよね~~はい

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la RINASCENTE
一番右のやつがそうなんですけど、まずこのジャケ最高と思いませんか?
分からない場合はドナルド・フェイゲンのナイトフライでググッってみて下さい


もうこの人は30年くらいやってるんですかね。
"愛は勝つ"の人KANの先月出てたセルフカバーアルバム…なんかこの言い方も、この人"愛は勝つ"と同じ位かそれ以上にいい曲というのも無数に書いてるので勿体ないなーって感じなんだけど。
まぁ自分は生まれた時代のせいかこの人の音楽をわりとずっと聴いてきていて…

今回のアルバムの特色としては、ヴァイオリン二本、ヴィオラ、チェロの生ストリングスカルテットをKAN自らアレンジしてその上でピアノを弾き歌っていること。
この人は音楽的に結構何でもできちゃう人で、今回のアレンジに関してもその非凡なセンスが出まくっている。
こういうストリングスアレンジのアルバムだとふつう弦楽隊は後ろで歌を邪魔しないように…ってなるのが、自身によるアレンジというのもあり、かなりガツガツいく感じ。
それは過去の曲の姿を大胆に変えるということでもあるし、単純ありがちなバラードアルバムに終わらないということでもあるし…。
そんで僕としては弦のバチッとかギューとか引きずったり叩いたりする音がとても好きなんだけどそれがよく鳴っていたりとかもうれしい。


小手調べといった感じのインストのワルツ"Manuett fur Frau Triendl"で弦楽アレンジのこなれっぷりを聴かせた直後、いきなりキャリア中でも最高の曲のひとつ"世界でいちばん好きな人"につなぐのだが、この曲のイントロの豊かで繊細に重なる響きでもう一気に耳が引き込まれる。
ブリッジ部とラストのサビの間に挟まった間奏部、ピアノが力強く主旋律を叩くこのパートが大好きだ。レコーディングでもライブでも毎回これをやるけれど、このパートに曲の芯の部分が入っている気がする。

"CLOSE TO ME"、これはかなり意識されてるのでは?と思うが、ビートルズ風のストレンジな合いの手フレーズを、ストリングスに様々なアイディアを投入して表現してみせる。ボトルネックのギター風のフレーズとか突拍子もないような跳ね上がる音とか面白い。
ストリングスなのにバンドの音で聴こえるという感じ。
ファニーな"キリギリス"もこの方向のアレンジが為されているけど、歌詞の中に"この曲構想足掛け5年 完成系は3分40"と歌っているところ3分50秒になってしまっているところはご愛敬か。

"いつもまじめに君のこと"、単純にポップソングとしての完成度が最高の曲だ。
ここではピアノを弾いていなくてハーモニーを弦楽隊に頼っているのだけど、ここまでいい曲なら音の見晴らしをよくしたほうがベターな形になるとの判断なのだろう。
アルバムの流れのアクセントにもなっているかな。

"月海"ではバラードに不釣り合いなほど大胆にストリングスがうねりまくるが、こういう冒険がこの人のアレンジセンスの面白いところだ。
6分の演奏の中で刻々形を変えながら、新しい流れを生んでいく。メロディがシンプルだからその動きが映えている。

ビートルズのカバー"here, There and Everywhere"を挟んで、やっぱりあの曲を演奏する。
"愛は勝つ"、本当に美しいポップソングなのだけど、ここでもサービスで入れたという感じではない本気アレンジがされている。
この曲のすごいところって、サビから始まるっていう展開なのに最初から最後までずーっと上昇していく構成だと思うのね。
AメロBメロでぐっと下がって、みたいなのがないじゃん。
それを踏まえてここでも全体を見据えてストリングスの重ねるフレーズを適宜引き出していくような……で、ピアノのあの象徴的なフレーズが現れて、またシフトチェンジするように別の展開が生まれていく…。
最後の1分に及ぶリフレインとアウトロはいつまでも続いてほしいと思わせる。

KANの書いた曲の中で僕が一番好きなもののうちのひとつが"まゆみ"なんだけど、ここで聴いても改めて、単純にいい曲だなと、それ以外のことを言えそうにない。
この小さな愛おしい物語をどんな形であれ耳にするたびに、なにもおかしくないのに笑ってしまって泣きそうになる。
こんなに美しい歌詞を持ったポップソングは他に多くはないと思う。

"彼女はきっとまた"はKANのユーモアのところがよく出た曲で、この手のちょっと笑わせるような曲をちょこちょこ書いてくるのがこの人の面白いところだよな。
ただこうして締まったアレンジで聴いてみればメチャクチャいい曲だということが分かる。

"星屑の帰り道"は何も奇をてらったことをしないシンプルな小品になっている。
これは94年のオリジナルを単純にアップデートという方向性かな。
20年以上立ってこうしてアルバムの最後を飾ることに全く違和感のない仕上がりで、こうしてこの人はいつまでも強度を失わないポップソングをいかに残し続けているか?ということに思いを馳せて気が遠くなる。
この人の曲になぞらえていうならモノホンのソングライターだと思うよ本当に。


単純にベスト的な選曲、というのなら"カレーライス"がない、"プロポーズ"がない、"言えずのI Love You"がない、それに何と言っても"君が好き 胸が痛い"が…
といろいろ言いたいところが出てきてしまうのだけどそういう事言い始めるとマジでいい曲が多すぎるということに再三気付かされるだけですねはい

"プロポーズ"という歌は僕の街に公園があってそこは噴水とか野球場とかあってかなりいいとこなんでそこに一緒に行こうみたいな歌なんだけど、この曲の中で、君に悲しい出来事があってもやっぱり公園にいこう、そこで僕は久しぶりにアルトサックスを吹く、するとそれがあんまりにヘタクソなんでまわりの人も犬もどこかに消える、それでぼくらは二人きりだから君の話を全部きこう…って歌っていて、ポップソングってこういうものだよなって思うよねなんか
今回のアルバムを聴きながら昼近い時間の山手線内の駅のホームを歩いていて、階段から沢山の人が行き来しているのが少し再生スピードを落としたような感じで見えて、何か謎の愛おしい気持ちが胸に湧き上がってきてフフッって笑ってしまったんだよね。


上の写真で今回のアルバムと弾き語りライヴアルバム二枚が写ってますがこの三枚の組み合わせは全曲間違いない内容なので最初買うならおすすめ



なんかこれは…2個しかメロディがないんですけど…クッソ良いんですけど…なんなんですかねこういうのは…
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My Disco 『Severe』

え~~~まずはですね
Otaku Young Teamライブありがとうございました。



普段は新宿西口のサイゼでこんな事をやっています


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このCDはライナス屋さんで買えるようですね。
テンポラリー・レジデンスより2015年作。これがバンドの(ライヴ盤除くと)5年ぶりのアルバムとの事。
マスタリングがラシャッド・ベッカーだったのだけど最近ラシャッドさんは複数いるか何か録音の場における不定形の概念を指してそう呼んでいるのかな?と思っています。偏在

公式サイトからもプロフィールとかはイマイチ分からずただその漆黒ぶりだけが分かるという具合。
とりあえずオーストラリアはメルボルンのトリオらしい。


とりあえず曲を聴いてくれ

えと何でしょう…。
ロックバンドにおけるギタートリオという形態-サウンドに上下左右から蹴る殴るの暴行を加え残った芯の部分といいますか。
そのロックンロールの核の部分、エートつまり、 'n' の箇所ですか。そこを金槌で遮二無二打ち据えまして中まで火が通るよう数時間熱しましたものがコチラ…見ての通り鈍鋭く黒光りしております。
こういうものを指して、かっこいいとか最高とか言います。

しかしこのバンドほど説明に困るロックバンドもなかなかない。
あえていえばポストパンク的と言えるのかもしれないが、そうした既存のロックの枠に収めるともう何か大事なものを取りこぼしている感があるし、そんな奇妙さを孕んだ音がしかし出音としてはどこまでもタイトかつソリッド、シンプルに洗練されている。
楽曲の構成上必要な最低限の打点を打ち込むドラムス、硬質なトーンでこれまたミニマルで大きなリフのループに終始するベース。
ギターはノイジーなフィードバックを従えているが、これにしても低い温度感を保っていて楽曲を構成するパーツ、という風に聴こえる。
ヴォーカルはポツポツと抑揚のない言葉を置くだけでメロディはない。
どこか、インダストリアルテクノの人たちがたまに手掛けるポストパンク風トラックみたいな印象も受ける。
とどのつまり、生のアンサンブルでありながら、どこまでも熱を欠いている。バンドの演奏をガラスを隔てて眺めているような。
それは普通のロックにあっては欠点なのだけど、この徹底的にコンセプチュアルな音にあっては、むしろ、これ以外ない、と思わせる。

強靭な意志をもって完遂される6分越えの3トラックはアルバム中でも出色の素晴らしさ。
ここまでシンプルな音であればすべての曲が2分で終わってもおかしくないはずで、それをこうした長尺に渡って(しかも反復を軸に)続けるというは、やはり彼らが参照しているのは電子音楽とかソッチの方面なのかな?という気がする。
陶酔と覚醒のトリップ感をもたらすモノクロームの音響空間。
このアルバムをリミックスしたEPも出しているのだけど、その人選がRegisとLustmordというのも分かりまくる感じである。

マイ・ディスコ。
ディスコという言葉はそこで人が交わることが要件としてあるような、ourのものであることを暗に含むようなイメージがあるが、そこにmy、おれの…この言葉の枕になることで自然含む意味としておれだけの…がくっついている。
シンプルにして実に的を射た名前だと思う。
たぶんそのディスコは彼の頭の中にだけあって、目抜けで傾ぐ今にも落ちて来そうなミラーボールの下で、彼はひとりぼっちなのだろう。
ずっと踊っていて、そこは廃墟なのだろう。


続きにライヴ映像など

Cristian Alvear / Cyril Bondi / D'incise 『Stefan Thut 'ABC, 1-6'』

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art into life

バンドキャンプもある

持続音系に偏ったラインナップの印象があるMoving Furnitureから最新リリース、コレ系でお馴染みの三者が現代音楽家Stefan Thutの2012年のスコア"ABC, 1-6"を演奏したもの。
47分20秒1トラックの内容。

Cristian Alvear - guitar
Cyril Bondi - percussions, objects
D'incise - laptop

無音。
モーターの振動音。
無音。
無音。
スネア表面の擦過音。
無音。
コンタクトマイクのフィードバック。
無音。
無音、無音。
弦を一本弾く音。
無音……。

無音の時間が半分か、それよりすこし少ないか?それくらいの配分に感じる。
もともと色のない、虚無的な、反(半)-音楽とでも言いたくなるようなアプローチの共通する3人だけど、それにしたってこの音源は異常という気がする。


D'inciseによるモディファイの施されたギターを演奏するCristian Alvear


D'incise、Cyril Bondiを含むセッション


Stefan Thutによる別の曲の演奏


この演奏に用意された膨大な無音の時間を使って、こういうことを考えてみる。
50分の演奏が収められているCDがあるとする。
この演奏は、あるタイミングでピアノが一音弾かれるだけのものだ。
これは音楽だろうか?
言い換えれば、このCDに音楽的な価値はあるだろうか?
モノとしての価値なしで、その音源がデジタルリリースされていたら、買いたいと思うだろうか?

二音だったらどうだろう。
三音だったら。四音だったら……
これが一分に4回くらい鳴っている、というところまでくると、(価値を認めるかは別として)多くの人に「これは音楽だ」と同意が取れるんじゃないか。

少し違う位相から見てみる。
無音に音楽的な意味を見出すということの一番分かり易く解釈は、それが休符である、とすることだ。
ところで、休符があることの条件は、テンポないし、それに準ずる指示があることだ。縦軸-音程と、横軸-音価があって、休符であっても後者は要求する。
テンポがあることの条件は、二音以上の実音符が存在していることだ。
速度は、二点の測定点があって定義できるもののはずだ。

この視点をそのまま縦軸-音程に移植してみる。
単一の音と、音楽の違いは何か?
最初に一音だけの音楽というものについて考えたけど、もう一度その地点に戻ってみよう。
一音だけの音が音楽になるためには、どんな条件を付せばいい?
たとえばピーという単一の発信音が鳴っている。これを音楽とみなすことは難しい。
そこに違う音程のもう一音が重なればどうか?
さらにもう一音。
同一の持続音が数十分鳴り続けるようなドローンの音源を僕も好んで買うけど、それは単純にはこういうものだと言えるだろう。

二点の音が配置されている。リズム。
二音が重なっている。コード、とか、ハーモニー、とか呼ぶ。
"音楽的"であること、"音"が"音楽"であるとみなされること。
お察しの通りで、音が別のある音との関係の中で相補的なやり方で互いを位置づけあっているとき(同じ文脈の上に、あるいはその文脈を構成するために、相対的なものとして配置されているとき)、それを"音楽的"と呼ぶのではないかな?あるいは、それがミニマムな条件なのでは?という風に僕は考えている。


面白いので、最後にもう少しだけ別の問題も立ち上げておこう。
単純にポップソングで考えてみてほしい。
35分のアルバムがある。68分のアルバムがある。
ギター弾き語りのアルバムがある。バンドにオーケストラまでついて音のギチギチに詰まったアルバムがある。
同じ値段で売っている。
これって、何かおかしくないか?
良くない音楽、良い音楽、みたいな主観の価値づけでなくて、それは明瞭な基準のはずだ。
このことは、やはり無音であるとか音の欠けにたいして、一般的な考え方としてある種の価値を見出しているということなのかなと。
で、それを延長していく…ギターの弾き語りのほうのコードの構成音を一音づつ減らして、歌詞も絞っていく…と、上のほうで書いたような一音の音楽というものに近づいていくわけ。
これってフォーマットゆえのおかしさというか、バンドキャンプなんかでアーティストが好きに自分の音楽に値段をつけられるようになったことで気付いたところでもあるのだけど…。


なんて言っていると今回取り上げているアルバムは終わっていたのだが、このアルバムの面白いところをもうひとつ見つけた。
終わっていることに気づけない。
それが音楽が終わったという無音なのか、演奏の合間に設置された無音なのか、2分程経ってやっと気づく。
このことは、自分でセッションなんかしていてもよく思うのだけど、即興演奏の終わりについての感覚を思い起こさせる。
音の余韻が消えるタイミングで演奏の当事者たちが顔を見合わせて頷きあうような場面を、この手の音楽が好きな人なら見たことがあるはずだ。
演奏の終わりというのは、複数の音=演奏者たちの相補的な関係の中で定位された焦点のようなものなんじゃないか。


それぞれが他の音と同線上に配置されることを拒否するような無意味に放られた音たちの中で、だからこそその終わりだけは強く取り結ばれた同意なのではないかな?と想像する。
静かな部屋で聴いてほしい一枚。
 

T美川 & John Wiese 『Oblique No Strategy』 Eryck Abecassis & Francisco Meirino 『La Gueule Du Loup』 Maulizio Grandinettei 『SEEK』


曲を作りました


シングという映画を観ました。
ワーナーのCGアニメ。この手のCGアニメ映画というのを今まで全然見て来なかったんですけど、今こんなすごい映像作れるようになってるんですね。まずそこで感動。
話は大筋としては棚ぼた的ご都合主義で進んでいく感じではあるんだけど、軽くはない。というのは、ユーモアの影にいつも淡く悲しみが滲むような絶妙な語り口が効いているからで…。
登場人物(?)の中に25児の親ブタのロジータというのがいて、彼女も映画の主題になっている歌のコンテストに出たいのだけれど、家事育児に追われてそれができない。で、どうするかというと、ピタゴラスイッチ的に舵をこなす機構を一晩のうちに作り上げて家の中に設置してしまう。このくだりはユーモアに満ちているけれど、一方でそれができるのはロジータが今までいかに自分を殺して機械のような暮らしをしてきたかということでもあるわけです。
そういう日常の悲しみ…フラれた、親が分かってくれない…(いろんな動物が、っていうのを聞くと政治的正しさ的な寓意の話と思われるかもですけどそれはほぼない、というのもミソ)がクライマックスにおいて一気にポジティヴなものへと転じて解き放たれる。
悲しみなんて歌にのせて吹っ飛ばすというその音楽、歌へのあっけらかんとして曇りのない信頼、めちゃくちゃ楽しいのに目汗が止まらんくなってしまいましたよ…。
いくつものダメさを希望に変えて、昔どこかで聴いたあの歌たちに乗せて人間(以外による)讃歌を歌い上げるという、なにかガーディアンズ・オブ・ギャラクシーにも似た映画かなと感じました。というわけでこういうものこそちびっ子たちのところに届いてほしい。
そしてオレがちびっ子のとき繰り返し見てたネバーエンディングストーリーみたいな映画になればいいなと思いました。


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今回紹介してるやつはどれもart into life屋さんで買えるかと

T美川 & John Wiese 『Oblique No Strategy』
John Wiese ジョン・ウィースのレーベル、ヘリコプターより。
15年の来日の際に落合soupで録音され、翌年パリのGRMスタジオでミックス作業が行われたとの事。
タイトルはブライアン・イーノの創作メソッドOblique Strategyからですかね。
インキャパシタンツのT美川とのセッション音源ということで、ウィースは近年のスタイルになってからセッション音源というものをあまり出していなくて、その意味でも面白い一枚。

4曲40分で、冒頭から清々しいほどのノイズの嵐。
金属音とうねる電子音が猛烈なスピードで絡み合う。静かな展開などもなく基本は原点回帰したようなハーシュノイズ。
近年のウィースのミキサーを用いたスタイルの色がよく出ていて、突飛で切断的な展開はあまりなく大きな流れの感じられる演奏。
サウンド的な仕掛けの少ないというか、正面から音で押してくる感じはセッション音源らしく。ツボを押さえたミックスとも言えるかな。
後半二曲のスローに湧き上がってくるような展開が特に好み。
唐突な幕切れも良い。


Eryck Abecassis & Francisco Meirino 『La Gueule Du Loup』
フラグメント・ファクトリーより今年の作品。タイトルは狼の意。
うちのブログでも過去にそれぞれ書いているけれど、ベース+シンセ+ラップトップのサウンドシステムを操るカスパー・ト―プリッツ門下のアーティストErick Abecassis エリック・アベカッシスとお馴染みのコンクレート職人Francisco Meirino フランシスコ・メイリノによるセッション。
こちらも上の音源と同じくパリのGRMスタジオ絡みで、こちらはそこで録音されて翌年に彼らのホームスタジオでミックスとエディットが行われたようだ。

二名とも近年になってかなりモジュラーシンセを多用しだしたアーティスト。
くわえてそうなってからも所謂モジュラーシンセの即興演奏という感じの音になっておらず、むしろアーティストのカラーがかなり前面に出た独特の音を作り上げているという印象。
そんな感じで期待して聴いてみた。
バツバツと細切れのノイズ、複雑なハーモニーを生む持続音、物理音めいた硬質の響き、それらが精緻に複雑に組み上げられた一個の音響として提示されるところはさすがという感じ。
なのだが……彼らがそれぞれのソロで作り出していた、この作家以外ではあり得ない、という独特なサウンドカラーは出ていないように感じる。
おそらくスタジオの機材を使っているのかな。
電子即興セッションとして刺激的な作品ではあるけどこの二名のならではの音というものが刻印されていればもっと良かったかな。


Maurizio Grandinetti 『SEEK』
ユナイテッド・フェニックスというよく知らんレーベルより16年作。
このMaurizio Grandinetti マウリツィオ・グランディネッティというおっさん、調べてみると普通に人の良さそうな感じなのだが
maurizio grandinetti
演奏はとんでもねえブチ切れまくりのギタリストである。

様々なコンポーザー/アーティストの曲を独自の解釈で演奏するというのがこの人の手法なのだが、選んでいる人たちの幅広いこと。
自分にはほぼ現音/前衛系の人しか分からないけど(エリオット・シャープとかもいる)トリップホップの人なんかもいるようだ。
演奏には普通にエレクトリックギターと多数のエフェクターを用いる原理的な方法なのだけど、手元からかなり捩れているであろう脳内風景が漏れ出しまくっている。
一発目の現音作曲家Alex Buessにょる"ata - 11"という曲では13分の尺を使ってオルガン的持続音/シーケンスフレーズ/輪郭のはっきりしない抽象演奏を出し入れするが、途中突飛にもデジタル歪みで原音の消失した破壊的ノイズギターが投下される。
意味不明すぎる。
スピーディで細かなフレーズやタッピングを多用して、ジャズ的なテクニカルな演奏も絡めつつ、曲によっては反復のミニマル表現もあり、様々な表情を見せるものの、いきなりキレキレのノイズギターをカマすあたりは共通していたりする。
ギターソロだけでお腹いっぱい感があるのに後半においてはフィールドレコーディングや謎のソウルフルな歌まで流してきたりするのでなお手に負えない。
ともに現音系のJunghae Lee "Lunatico"、Volker Heyn "Electric Cat"の演奏が特に、この人ならではの突拍子のないサイコ感、ビヨルケンハイム的歪んだ超絶技巧、人の曲だけど俺の世界を聴けという強力な意志を叩き込まれている気がして好み。


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今日はそんな感じで

あと来月やるライブの告知サイトができていたのでよろしくお願いします
ペンギンハウスで僕と握手!あるいは機材にタッチ


Greg Fox グレッグ・フォックスのライヴを見に行っていた

来月ライヴやります!
サイゼリヤをグループ利用する際に使用している名義で出演します。
我々は3ギターを擁する編成にてソニックユース~ブランカ的なミニマル/ノイズロックを展開する予定です



ご無沙汰しています。
ここ最近は映画をふたつくらい観て…















あとはひたすらニーアオートマタをやっていたような記憶があります


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で、今日というかさっきZsの凄腕ドラマーGreg Fox グレッグ・フォックスのライヴを見てきたのですが。
八丁堀駅のすぐそばを流れる川の中州にあるライヴハウス七針、初めて行ったけど、すごく雰囲気良いですね。
ブエナとかに近い感じかな。30人入ったら軽く満員くらいの広さで、ステージとかなく同じ目線で演奏する感じ。
で、そうグレッグ・フォックス。
本国では音大のジャズドラム科のマスタークラス持ってるようなのをどっかで読んだけど、自分の印象としてはジャズ的な小節や拍を無化する方向とは逆、リズムを数理的…微分的?…に精緻に突き詰めた結果の超絶技巧みたいな印象を受けたかな。
ある一定のパルスが流れてはいる。ただリズムというのはそれを如何様な割り方にも解釈し得るということで、その可能性が多元的に同時に存在している。
4であるということは64であるということで、それは同時に3でもあり、24でもあるということなんだけど、それらの間を驚異的なスピード感でジャンプする。その音の詰め方の緊縮によってダイナミズムが生まれる。
だからダイナミックであると同時にミニマルでもある。厳密に整然としているから。
嵐のようなドラミングなのに静かとも感じてしまう、そんなロジカル超絶ドラムといいますか。
彼は最高のドラマーですねやはり。

それに加え今回はドラムにセッティングする特殊なシステムを用いていて、それも面白かったな。
スネアやタムにセンサーをセットして、それがラップトップに繋がっているという見た目。
これは何かというと、ドラムの太鼓の中の叩く箇所や部位に音を割り当てて同期するように様々な音が出力されると。
これを用いて電子音と絡めた演奏をしたり、合成音声で歌わせたりしておりました。
見てもらう方が早いかな。スネアのみでこんな演奏になる

勿論ニュアンスとか含め技術が要求されるのは言うまでもないけど、ドラムソロパフォーマンスの新たな形かなと。



自分はもともと音源でもドラムソロのものとか聴くの非常に好きなんですけど、このグレッグは一番ライヴで見たかったドラマーの一人で。
Zsで見た時も素晴らしかったけど、バンドや曲という外枠なしではこんな演奏するのかと。
めちゃくちゃ良かったですねはい

 

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伊達さん

Author:伊達さん
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カワイイだけがオレの信仰
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