レディ・プレイヤー・ワン、さよならの朝に約束の花をかざろう、マザー!、灼熱の魂、ハッピーエンド、15時17分パリ行き、アフターマス

観た映画から何本かピックアップして。
今日観た二本と、あとはこの前の記事よりも更に以前に遡って。多分2月~3月で観たやつ。


レディ・プレイヤー・ワン
これ一番の話題作ですかね。
あんま関係ない話なのですが、現状IMAXシアターってまだ数が少ないし、入ってる映画館でもほとんどは1スクリーンだけだったりする。
その現状に対してIMAXに最適化された映画の供給が上回ってきちゃってるなと思ってて。
つまり何が言いたいかというと、同じ週にこの映画とパシフィック・リム:アップライジングが公開すると。
IMAXのスクリーンを2本が奪い合う形になる。この中で自分も結構鑑賞のスケジューリングがタイトになったとこがあって。
これってなかなか悩ましい状況ではありますよね。
で、レディ・プレイヤー・ワン。
まあこれについては多くを語る必要はないかな。
シンプルに、体験する映画かなと。正直、これを家で観るのは、観てないのと同じ。
映画館でしか機能しない映画という、実に今らしい一本でした。
現状の映画館、映像エンターテインメントがどこまでのものになってるか?ってのを体感するために、一刻も早く近くのIMAX3Dシアターに足を運んでください。
俺はガンダムで行く。


さよならの朝に約束の花をかざろう
正直近年の岡田麿里氏の仕事に興味が薄れかけていたのもありチェックしてなかったのだが、ツイッターのタイムライン上で信頼のおける向きから絶賛が連続で届いたため終了間際に滑り込み鑑賞。
観てなかったのは、いわゆるファンタジーアニメで、そっから苦手ってのもあったのだけど。でも描いてあることはとても普遍的で。
つまり、親、スゴいね、っていう。
でも親って(当然だけど)最初から親なわけじゃなくて、段々親になっていく。人間の子どもはネオテニー、幼形成熟と言われるけど、親もそういう部分があって、子どもが出来てから、子どもと関わることを通して親になっていく。このあたりはリンクレイターの『6才のボクが、大人になるまで。』とか思い出すのですけどね。で、それを語るための設定がいくつかあって、ファンタジーとしての必然性が分かり易い。
ファンタジーということで言うと、原作ものとかスピンオフとかじゃなくて、独立した単独のオリジナル作品でこういう世界観をイチから作り上げた上で、物語の中で無理なく語り切ってるってのも素晴らしいしさ。
でもこの映画について自分が強調したいのは一点で。
映画って一度だけ大きな嘘をついていい、魔法を使っていい、なんて言われるけど、これの意味って、一度だけリアリティレベルないし物語のトーンから大きく飛躍していいってことだと捉えていて。
そのとっておきの魔法をかける瞬間をこの映画は間違えていない。というか、そのためにでき得る全ての準備を済ませて、一番重要なものをそれに託してる。
物語終盤にその瞬間はやって来るのだけど、リメンバー・ミーでも似た場面があったからか、こっちの非の打ちどころの無さが際立ってたように感じてしまった。よくない言い方かも分からんけど。
それまであくまでも背景の、物語の世界観のために設置されたガジェットのように見えていたそれ、それについて作中で時々さり気なく語られていた物語、それらがその一点で綺麗に線を結んで絵を描く映画的なカタルシス、高揚感が半端ない。
単純に場面として究極に絵になること、それが物語の流れをある種反転させ、それに足る説得力を持っていること、サプライズでありながら作品のテーマと深く結びついていること。
こんなにも完璧な映画の魔法がかかる瞬間はそうそうお目にかかれないように思う。アニメって結構やろうと思ったら幾らでも魔法使えちゃうようなとこがあるって点からも、それを一点に引き絞ってるの、分かってるなって感じ。
花は咲きいつか散り落ちて腐り土となりまた隣に咲きゆく花が少し似た香りだったらなんて素敵な事だろうか?って歌を思い出す。


マザー!
ブラックスワンやレクイエム・フォー・ドリーム(僕はこれが一番好きですけど)で知られるメンヘラ監督ダーレン・アロノフスキーの最新作は、劇場公開中止の憂き目に遭った問題作。
自然に囲まれた静かな田舎に夫婦が二人で住んでいる。夫はスランプ中の作家で、奥さんはちょっと潔癖気味。何かの薬をずっと飲んでいる。あるとき全然知らない夫婦が訪ねてきて、泊めてくれと言ってくるのだが、渋る奥さんを尻目に夫は気前よく迎え入れる。この夫婦が何やら横柄な人たちで、そのへんのものをベタベタ触りまくる。奥さんイライラ。更には「息子たちが今からこっちに来ると言ってる」とか言い始める…。
そんな感じでどんどん知らない人がやって来て、あれよのうちに…って話なのだが、ここまで聞くと地味そうな話じゃないですか。
でもとんでもないです、これは。超展開に次ぐ超展開、超展開のインフレ。ホラーもミステリーもコメディもSFも大河も全て一件の家の中にブチ込み、挙句その家はミキサーになっていて容赦なくそのスイッチ入れちゃうような映画。
聖書ベースの物語の映画ってままあるけど、これはその一形態でありつつ、やってることはあらゆる良識や正しさを破壊することなので、その先の景色見たい人だけが観れば良いかと。おすすめはしないけど最高の映画。
これを観て頭おかしいという言葉の意味を知って下さい。
しかし何気に先日惜しくも亡くなったヨハン・ヨハンソンが音楽…というか全体のサウンドデザインを行っていたり、ガス・ヴァン・サントのエレファント風の主人公のすぐ後ろをずっと追従していくスタイルのカメラ等、映画として見て相当に高度な内容になっているところがまたタチが悪い。


灼熱の魂
中東の風景にレディオヘッドを重ねる掴みから強烈センス炸裂の本作は、メッセージやボーダーラインでお馴染みドゥニ・ヴィルヌーヴのブレイク前の作品。
とはいえこれまた凄まじい。
主人公の双子の兄妹が亡くなったお母さんの遺言を受け取ると、封筒が三つに分かれていて。ひとつはこの兄妹に宛てられたものなんだけど、残りのふたつは、この二人の兄と父に宛てられている。で、困ったのが、二人とも兄と父に会ったことがない。生まれた時にはもういなくて、死んだのかと思ってたのが、実は生きてるよ、と。で、この兄と父を探しに行く。
てな話。なんかまた書きだすと地味っぽいんだけど。これまたとんでもない。兄と父を探す過程で二人は全然知らなかった母親の人生の物語を追体験していくことになるのだが、これが壮絶で苛烈、そしてあまりにも数奇なもの。もう何も書けず歯がゆいのだが、非っ常に驚くべき結末が待っている。で、それが所謂どんでん返しの為のどんでん返しみたいなもんでなく、その真実が分かることで混沌とした映画にスッと一本の芯が通る感じなんだな。その瞬間の、安堵とも感動とも畏敬とも絶望ともつかないような、言葉にならない感慨。
ほんとスゲー話なんだけど、映像や音はヴィルヌーヴということでメチャクチャカッコ良く、引き込まれるように観られてしまうんで、是非。


ハッピーエンド
当然僕も大好きなハネケの最新作ということで。ハネケの映画にハッピーエンドってタイトルがついている、それだけで胸が躍りますよね。
ハネケらしい、状況をただカメラの前にポンと置いてくるような撮り方、あれが自然に携帯カメラや防犯カメラなんかの映像を取り込んでいて、劇伴が全然無いというのも含め寒々しい映像になってはいるんだけど、同時に多分にブラックコメディ的な語り口でもある。
それと面白いのが過去のハネケ作からの引用があちこちに見られること。
べニーズ・ビデオで始まり、アムールと繋がっているようにもとれるストーリーで、最後はタイム・オブ・ウルフと似たモチーフで終わっていく。行間の大きく空いた映像の連なりは、合間合間に過去作の映像が脳内挿入されて補完されていく。
それらをハッピーエンドへと引きずっていくような話ともとれるのだがしかし、そのハッピーエンドは…という。
無音のエンドロールも素晴らしい。


15時17分、パリ行き
イーストウッドの映画観るといつも、悔しい!ってなっちゃうんですね。
政治的なあれこれとか、人格的にちょっとこういう人はなぁ…って思うんだけど、映画はメッチャ面白いんだもん。
てなわけで、今回も素晴らしい。てか、イーストウッドの中で一番好き。
何しろこれはジョジョ5部じゃないですか。イタリアが舞台だから言うわけじゃないんだけど。
人は皆運命の眠れる奴隷。覚悟とは暗闇の荒野に進むべき道を切り開く事。
まさにあれで。
過去の失敗とか挫折とかまで含めて、それまでの人生がある一点、それもここにおいて全てが決するというような一点に、爆縮する。そういう宿命の話。
それをヘタに盛り上げたり過剰に演出することもなく描いていても、映像に格調が出てくるのがこの人の映画なんだよね。
事件当事者である主役三人の演技も素晴らしい。またこの言葉を使うのだけど、これも何か映画の魔法のようなものが働いたとしか思えない一品だなと。
デトロイトと並んで今年ベスト候補の一本。


アフターマス
シュワちゃん主演。
実際に起きた飛行機事故の顛末を描くノンフィクション。
空中で旅客機が衝突するという事故で、そのとき空港で誘導していた管制官と、事故で家族を失った遺族の男の話。
いちいち描写が重く胃に来る。
例えば衝突の場面とか、爆発炎上の描写なんか全く無く、それまであった信号とレーダーの表示がパッと消えて、あれっ…嘘…嘘だろ…?みたいな。
取り返しのつかない事って、やっぱり時間を経てじんわりと腹に染みてくるようなものじゃないですか。もうそれがずっと描かれていて。
見てる間中息苦しくて具合が悪くなってくるほど。
誰が悪い訳でもないのに、と思うと、ひたすらに遣る瀬無い。
非常に辛い内容ではあるけど、観る価値のある、観るべき作品かと思う。
シュワの重く沈むような演技も実に良い。
実話なんで調べれば事の顛末は分かってしまうのだけど、ぜひ予備知識を入れずに観て欲しい。

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Florence



Florence | An interactive story about love and life.

先月遊んで深く感銘を受けたゲーム。
今のところのゲームオブザイヤーな勢い。
マウンテンズスタジオというメルボルンの小さなスタジオが作っていて、App StoreとGoogle Play Storeで配信している。
steamでは無いわけですが、これはこのゲームがスマホってデバイスの…タッチスクリーンの…性質を大いに利用してるからで。
で、これ、何の話かっていうと、今日もしこれからネトフリとかアマゾンビデオを見たりyoutubeの配信を見る予定があったら、その1時間と、あと360円をこのゲームにくださいって話なんですよ。

上のリンク先を見てもらうと分かる通り、とてもシンプルなアートスタイル。
デジタル紙芝居のような感じで、物語はありふれた…これ以上ないほどありふれた初恋の話。選択肢もない。
本当に特に別段書くところもなにもない話なんだけど、これが切ないほど強力に感情を揺さぶってくる。
どうやってか?
ゲームにしか出来ないこと…つまり、操作することそれ自体によって。

タッチスクリーンの、既定のボタン構成などがないという特性を利用して、このゲームは多種多様な操作を要求してくる。
にも関わらず、チュートリアルは全くない。というか、言葉がほとんど用いられない。
この理由はシンプルだ。
例えば現実で誰かに好意を伝えようという時に必要な手順は、Aボタンを押してテキストを読み進めたり、選択肢にポインタを合わせて左クリックをしたりすることだろうか?
そうではなくて。
我々はそれを知っている。いや、正確にはそれを、その時にはいつも知らないのだということを、知っている。
ゲームの外枠を一旦外してみることで、物語というよりはゲームメカニクス、操作というレベルから感情にアプローチするこの方法には、直感性なんていう言葉の意味するところのひとつの答えがあるように思える。

もうひとつの重要なことは、このゲームにおいては、結末は一つしかないということ。
自分は、魔王を倒したり、複数のヒロインの中から一人を選び取ったりして、なにかその世界に働きかける事で、言うなれば世界を変えることが、イタンラクティブ性という言葉の意味なんだと思っていた。
でもこの作品を遊ぶと、それは違うということが分かる。
これってゲーム実況とかプレイ動画を見る事と遊ぶ事、それが全く無関係な程に違うことだって話でもあるんだけど…
Aという選択肢だけしか目の前にないとして、それが映画みたく自動的に目の前を流れていくってことと、それを自分で例えばタッチして進めるっていうことは全く違くて。
うまい言い方が見つからないけど、もっと一般化して言うなら、ある現実が一本道を通ってこちら側にやって来るってことと、こちらから歩いてその現実に向かっていく、ってことは全く別の意味なんだよね多分。
その現実を自分のものとして、いわば選び直して引き受けること。
このゲームではそんな場面が何度も訪れる。
奇妙なことだけど、一個しか選択肢がないとしても、それを選ぶ責任を引き受けるような選択が。
で、遠回りしたけど、インタラクティブ性って言葉の意味のひとつは恐らくそれであって。
つまり、その選択をしたという責任によって物語に没入させるという手法。
ドラッグが、フリックが、ただ触れるということが、こんなにも痛いことだと知らなかった。そういうのはすごく今日的な感覚とも言えそうな感じ。

ニーア・オートマタって、ゲーム中次々ジャンルも操作体系も変わっていって、最後までやればその意味も何となく分かるけど、自分の解釈をひとつ言うと…
あれってプレイヤーをゲームの物語の上に召喚するための手続きだったのかなって思うわけ。
クライマックスにおいて、こんな結末は嫌だ、変えたい、と願う主体が物語に働きかけなければ有り得ない、という展開が待つわけだけど、あそこではもうプレイヤーの意思が物語を動かすために直接呼び出されている形。
このゲームがやろうとしていることはあれに近いような気もしている。
画面越しに…タッチスクリーン越しに文字通り…物語と触れたあなたは確かにここにいたんだ、と呼びかける。そういうゲームの魔法をどうにかしてもう一度呼び出そうとする…それをインタラクティブ性という名前で呼ぶならそれもいいけど…そんな在り方に対して、オレはこんなにも強く感情を揺さぶれらたのではないだろうか?
そしてそれは勿論、自分が誰かも分からない主人公が誰かに出会って自分が誰なのか分かるという、その物語と呼応している。
うーん。ここまで書いて難だけど、それってそんなにありふれた話だろうか?
それこそ、本当にかけがえのない、大切な物語というべきじゃないか?


Florence (Original Soundtrack)
メイド・イン・アビスなんかでも音楽を手掛けていたKevin Penkin ケビン・ペンキンによるサントラも素晴らしい内容

エピドグマ

年明けに二度セッションをしたのですが、その時の音源を使って曲を作りました

なんかイエロースワンズをやりたかった感じですかね。
あと自分の好みのところで演奏の痕跡が沢山残るように作っています。
アートワークは微妙に気持ち悪い違和感が出るようにそこそこ手間をかけて作っています。
今の感じで出すのは一旦これでおしまいと思っています。
気が向いたら別の所で別様にやるのかなとも思いますが。
このバンドキャンプはいろんな人の世話になり最終的に自分の手元に戻ってきたわけですが今改めて全体を見ていたら結構面白いことになっていたんだなとしみじみ。
ありがとうございます。

きみへの距離、1万キロ、夜空はいつでも最高密度の青色だ、バンド・エイド、ヴァレリアン、ラッキー

ドカドカ映画を観ているのだが、今ちょうど一か月くらい前まで記録を遡って特に良かったやつについて書いていこうと思います


きみへの距離、1万キロ
これ一番最近観たやつね。
いやあ良かった。
アメリカに住む主人公の仕事は、北アフリカの石油パイプラインを警備するクモ型ロボットを遠隔操作するオペレーター。
そんな仕事を夜勤でやっている。
ある日、ロボット越しに現地の女の子が困っているのを見つける。身売り同然に金持ちの家に嫁がされそうになり、彼氏と一緒に国外に脱出したいらしい。
夜毎やってくる、何の意味も見いだせない仕事。でもここでほんの少しでも世界を変えられるなら、自分がここにいる意味もあるのかもしれない。いや、誰かに分かってほしい。僕はここにいると。誰か僕を見つけて。
なんかこの話はやたら純愛という言葉で売り出されているんだけど、実際観てみるとそう単純じゃないことが分かる。
確かに、女の子の身売りの話は酷い現実という他ない。ただ、それに対抗するために主人公が持ち出す武器は、グローバリゼーションの帰結としての彼我の圧倒的な経済/技術格差。
そもそもこの話の根底には、アメリカの企業がアフリカに石油施設を作り、そこから現地人が石油を「盗んで」いる、という構図が土台にある。
そこに視点を置いた上で、主人公がしているのはどういう事なのか?と考えると見え方が変わってくる。
ただ、いや、だからこそ、終盤での主人公の嗚咽交じりに語る本音は胸を揺さぶるし、この不完全な世界でどこかぎこちなく、それでもという風に歩みを進めるクモ型ロボットの動きにも薄っぺらじゃない説得力、温かみが宿ってる。
もうちょっと苦い結末でも自分的にはいいかなと思ったけど、とはいえこれは非常に良かったです。


夜空はいつでも最高密度の青色だ
これ元になってる詩集の中二感にお、おう…ってなってしまって見てなかったのですが、とても良かった。
東京で過酷な現実を死んだ目をしてやり過ごしながら、生き返るための何かを探す人たちの話。
主人公は日雇いの土方やってて、その同僚に50過ぎのおっさんがいる。
一緒に飲んでると、このおっさんがコンビニの店員に惚れちゃったって話をするんですね。
「こんな暮らしだけど、生きてるんだ、恋もしてる。ざまあみやがれ!恋してるんだ!」
外に出ると、今日これからデートなんだ、と言うが早いか、疾走し始めるおっさん。でも腰痛めてるんですよ。このおっさんは。
「え?走るの!?」と主人公。それに対するおっさんの返答。
「早く会いたいから!!」
こんな映画は最高だって言ってるんですよ。
全体に前向きで人間への信頼が感じられるのが心地良かった。
「何かとてつもなく良いことが起こるかもしれない」。


バンド・エイド
これはアマゾンビデオで先行配信してたやつ。
喧嘩してばかりの険悪な夫婦が、ガレージで高校の頃やってたギターとベースを見つける。
これでもう一度やり直せたら。
なのに、一緒に練習を始めるや否や喧嘩になる。
互いへの罵倒が歌になって、無限にフレーズが溢れ出してくる…。
ゾーイ・リスター・ジョーンズさんって女優さんが、主演・監督・作中音楽の作曲と全部やってて、なんか全部上手くいってる。ズルいな。
コメディなんだけど、中盤にちょっと話の軸の転換があって、そこで物語が一気に深い色を帯びる。
シングでも思ったけど、やっぱロックンロールという言葉の意味は、ひとつには、悲しみを叫ぶこと。エネルギーに転じること。これで。
吹き替えなしで役者たちが実際に演奏する作中バンドの演奏も、リラックスしたクリブスみたいな感じでスゲー良い。
サントラ買ってしまいました。
これ
The Dirty Dishes EP (Original Songs from the Motion Picture "Band Aid")


ヴァレリアン 千の惑星の救世主
コレもスゲー楽しかったですね。
定期的に出てくる、IMAX3Dの為に作られた映画。
画面の奥へ奥へと…つまり映画の中へと…突き抜けていく映像の快楽。
無数の宇宙人が研究の為とやって来て次々自分たちの住み易いように増築、宇宙の九龍城砦のようになってしまったコロニーが舞台。
で、その宇宙人の中には水棲のやつも、ガス状惑星に住んでるようなやつもいる。
そんなだから、扉の向こうがどうなってるか分からないようなクレイジーな世界観になっている。
ビジュアルの目眩がするような楽しさ、奇妙な美しさの洪水とバランスを取るように、全体のノリは軽めというのも正解。
戦争紛争にノー、多文化共生にイエス、とカラッと宣言する心地いいヴァイヴス。
一瞬シリアスなテーマも嫌味じゃないどころか胸が熱くなるような。
私たちは、あなたがたを赦します。だからあなたがたは、自分たちの犯してしまった罪を決して忘れないで。
日本人だから特に思うのか分からんけど、こういうのって日本もアメリカも言えないことで、ヨーロッパだからなのかなって思ったり。


ラッキー
ハリー・ディーン・スタントンの遺作となった主演映画。
90歳の偏屈老人・ラッキーが、身体の調子が悪くなったのをきっかけにいろんな人と意見を交わして、やがて近いうちに人生が終わるということを受け入れる。
パリ、テキサスって自分にとっては映画いろいろ観始めたばかりの頃に観たうちの大切な一本で、だからいろいろ感慨深い。
とにかく個々のエピソードの語り口が抜群に素晴らしく、回想とかモノローグとかなしに的確に個々のかけがえのない情感を浮かび上がらせて見せる。
そう、それでラッキーはこう言う。「素晴らしい(ビューティフル)」。
だから〇〇するのさ。
美しい映画です、おすすめ。
作中にラッキーの歌とブルースハープの場面があるのだが、それもメチャクチャ良くて、スタントンのアルバム買った。
Partly Fiction
2014年にスタントンの自宅で録音されたもので、ほぼギターと歌、それからブルースハープ、一曲だけベースが入り、メキシコやアメリカのトラディショナルを歌っている。
曲について話したりする様子やなんか入ってリラックスした感じだけど、超一級の役者が歌うってこういう事なんだと思わせられる。つまり、生きてきた軌跡が鳴ってる。
これも最高のアルバム。


是非というものだけでこれだけ…そんな様々な作品を観てきた中で、本当におすすめしたいのがこれ!
怪奇蒐集者Special 六本木怪談 祟
怪奇蒐集者Special 六本木怪談 呪
怪奇蒐集者(コレクター) 村上ロック
いや、マジでこれ面白いんですよ。
いわゆる心霊映像とか、再現ドラマとか、そんなのと違い、ただ怪談師が怪談を語る、という直球勝負の内容なのだが、これがガチで怖い。
折に触れて言ってるけど、やっぱ怪談って、"談"、語るものなんだなって。
六本木怪談は "かくれんぼ"、"あの人死ぬよ"、"背後にいるモノ"、"百物語"あたり、それから村上ロックさんの単独作は全話素晴らしい。
部屋の電気を消して耳をすませて見て下さい。おすすめ。
 

MOROHAとTHE君に話すよとYAMA-KAN

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MOROHAとTHE君に話すよとYAMA-KAN。
最近聴いてる音楽のローテのベースが大体これになってる。その合間に新しく買ったやつが挟まってる。

MOROHAはワンギターワンマイクのラップグループ?バンド?で、最近始まった『宮本から君へ』のドラマでも使われていたけど、自分はこの前やっていた映画の『アイスと雨音』で知った。


予告でわりと衝撃を受けて

この映画は全編ワンカットなのだが、『バードマン』と同じく演劇を主題として扱っている。
つまり疑似ではなくて本物のワンカットのバードマン。
で、バードマンで特徴的だったもののひとつにドラムソロの劇伴があるけれど、あれ、たまに背景で演奏してるのが映ったりしてたじゃない。
それを全編やってしまったのがこの映画で、実際にギターとマイクにスピーカーを抱えて登場人物たちと共に駆けずり回りながら生演奏で劇伴?を奏で続けたのがこのMOROHAというグループ。
ラップであるから、ただでさえ映画自体のセリフとぶつかるわけだけど、それが映像の中の同じレイヤーに収まってしまっている。
時折登場人物が歌っているMOROHAのほうにチラと視線をやるのにもハラハラする。
で、本当に驚くべき場面は映画のクライマックス近くにやって来る。
これは書かないけど、ただ自分はこんな第四の壁の壊し方は見たことなかった。

MOROHAは三枚のアルバムを出している。
どれもすばらしい。
繊細なフィンガースタイルを軸に、複雑な構成のフレーズ、スラップ、スラムなど何でもありの超絶技巧アコースティックギター、あまりにもエモーショナルすぎる、過剰にエモーショナルなラッパー、そういうシンプルな構成だけど、無限に聴きたくなるような心地良さと強度がある。
こういろいろあるけど、"スペシャル"という曲は別格に良いな。ラップなのに逆説的なことかもしれない、でもMOROHAの音楽のもつ最も美しい瞬間は、ビート、リズム、韻を逸脱して言葉と感情が溢れ出してしまうような箇所だ。

III
あっ、やっぱ最新作が一番良い


THE君に話すよ、"僕のサンボマスター"という曲があって知ったのだけど、すごく良い。
『この耳鳴りに出会うまでのすべて』ってアルバムが出てる。
言っちゃえばリバティーンズだと思うのだが、こういうスレてなさって貴重だよね。
日本でこういうことしようとするバンドはいるけど、一様に演奏が綺麗になっちゃって歌だけそれ風、みたいになっちゃったりして。プロデューサーとか入るともっと悲惨になったり。
"ロックンロールを知らない"って曲がもうとにかく良くて。
イントロのギターが入った時の、え?って感じとか。ペラペラで勢いで突っ込んじゃってる感じ、正解!って。
"僕はロックンロールを知らない / だけどあの川のほとりで鳴ってたあのナンバー / あんたが泣いてたことを僕はずっと覚えてる / いつかそれをロックンロールと呼びたいの"
リズム体も不必要にバタバタしてたり、ベースのなんか角張った音の感じとかね、スゲー良いですね。

この耳鳴りに出会うまでのすべて


YAMA-KANは名前の通り、山崎まさよしとKANのユニット。
そんなの、最高に決まってんじゃん!終了!って感じなのですが。
3曲入り全部A面のシングルで、全楽器を二人で分担して演奏したというだけあって、シンプルな編成の、余裕のあるリラックスした内容になっている。
とはいえこの二人。何にせよ曲が良すぎる。
"セロリ"とかのラインの分かり易く緩いラテンの感じの入ったポップス"Take me Follow me"。
浮遊感のあるメロディがノスタルジックに揺れる"記憶にございません"。
"手をつなぎたいんだ"はタイトルの通りモロにビートルズなサウンドの一曲だが"君まで飛びたいんだ 例えば大倉山シャンツェから"とか歌ってる。なんか2018年のJポップにあるまじき感じだ。これ一番好き。
こういう、ギターとピアノとドラムとベースと鍵盤にそれぞれあるべきスペースがしっかりと与えられていて、それだけ。みたいな音楽ってやっぱり良いね。

Take me Follow me/記憶にございません/手をつなぎたいんだ
 

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Author:伊達さん
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