FC2ブログ
 

 

ボーダーライン ソルジャーズ・デイ、ア・ゴースト・ストーリー、イット・カムズ・アット・ナイト、へレディタリ― 継承、ディザスター・アーティスト

今日は新作オンリーで
ただ一作事情があって劇場ではなく配信になっています

『ボーダーライン ソルジャーズ・デイ』
デイ・オブ・ザ・ソルダードって原題クッソカッコ良くないっすか。
これ、前作がメチャ良かったゆえに監督交代がどう作用するか心配だったけど、杞憂。
素晴らしいっす。
監督のステファノ・ソッリマはイタリア出身で、かの国と言えばのマフィア映画で頭角を現した人らしい。
なるほどという感じなんだよね、暴力を扱う手つきが。
物語を聞く構えで行ったらいきなり銃床でぶん殴られるような導入部から、もうそれ。
引きの画なら引きの画のまま、カットも割らずに、前触れもなく突如として破壊的な暴力が到来する。
ハネケとかあの辺にあるような客観的なカメラ・演出+超暴力。
ストーリーも、最悪の暴力には最悪の暴力で対抗するという構図。
そこに脚本は続投のテイラー・シェリダンならではの、境界において世界から遺棄された人々の話と。
そしてラスト。
「羊を追い立てる牧羊犬」に対してアレハンドロはこう聞くわけ。
「狼になりたいのか」と。
そして故ヨハン・ヨハンソンによるメインテーマ…。
前作とガチっと重なるような。
これは理想の続編のありかたと言えるような作品かと。


『ア・ゴースト・ストーリー』
死んだ男がオバケになって奥さんをずっと見守っているって話。
なんだけど、独特なトリックを用いて斬新なストーリーテリングを行っている。
それはつまり、終わりが無い存在にとって時間というのはどう認識されるのだろうか、という問い。
その時間の中で、ある思い出だけが、自分を世界に繋ぎとめているとしたらどうだろう?
さらにその変容した時間のあり方を描くにあたっては、独自の映画文法を導入している。
映画って基本的には横方向に時間が動いていくもので、それはシネスコという形態からの要請であると考えたとき、その時間を断ち切るためにまずどこに手を入れるか。
というわけで、この映画は全編が角を切り取られた独特の正方形スクリーンで進む。
そして、移動は基本的に横方向でなく手前奥方向に行われる。
映画で登場人物が奥手前に動くときって、位置の移動というよりは、意識、意志の動きを現してる場合が多い。
それに加え、随所で登場する超長回し。
これも映画的時間、空間的時間から内的時間、心的時間にフォーカスする手法。
なんかこれは、ゴースト・ストーリーというタイトルではあるんだけど、勿論ラブ・ストーリーだし、更にはシネマ・ストーリーでもあるだろうと思ったんだよね。
この映画の中で描かれていることは、まさに映画を観るということに似ている。
同じ映画を繰り返し見て泣くことは、偽物の感情なんだろうか。複製できる体験は。何度もやってくる思い出は。
悲しみは時だけが癒すって、時間の外側(それは果てしなく自分の内側だということだ)からそのことをどう思えばいいんだろうか。


『イット・カムズ・アット・ナイト』
森の奥に何かがいて、それは死の病を伴って来る。
だから日が暮れたら、絶対にドアを開けちゃいけないよ。
という話。
近年の「恐怖の対象が名指しできなくなったホラー」ということについて、何度も何度もしつこく語ってると思うんだけど、ペニーワイズじゃない、この「イット(それ)」は、まさにそれそのものだ。
先に書いてしまうと、この物語はある種の「ゴドー」で。ゴドー形式の映画ってそろそろ一冊のムービーガイドになりそうなくらい増えてきたけど。
「それ」はただ、生い茂る森の木々の奥、あるいは真っ暗闇の向こう側としてだけ描写されている。
その描き方が表現するものって何かな?と考えたとき、私事であれだけど、沖縄のガマを見学したときのことを思い出したのね。
ガマは天然の洞窟を使っていて、中には灯りはない。開けた場所に出たとき、案内の人がふいに懐中電灯を消すわけ。
「これが本物の暗闇ですよ」。
するとどうなるかっていうと、不思議なことに、目が閉じてるのか開いてるのか分からなくなる。
自分の肉体で、自分で制御しているのに。その制御って、確かなのか?と。
次に、自分の体の内側と外側の境目が分からなくなる。
世界が内面に侵入してくるし、内面が世界に溶け出していくような。
身体感覚ってそんだけ曖昧だよということでもあるけど。まぁ普通に生きてて完全な暗闇ってのを体験できる場面はないんで。
映画の話に戻ると、森は、暗闇は、劇場は、その中のスクリーンは、映画は、ホラーは、たぶん世界に内面を投影するということのメタファーだったり、現れだったりするのではないかな。


『へレディタリー 継承』
これ、メッチャ褒められてるじゃん。
「現代ホラーの頂点」とかいって。
だからもうバカにしてやろうと思って。「全然怖くなかったですね」って。
すんません。スゲー怖かったです。それ以上に、最高に面白かったです。
設定とか話の運びはまさに王道のホラーといったところ。新鮮味はとくにない。
冒頭のある印象的なカットの引用元を考えると、「この映画はこういう過去の遺産をフル活用していきますよ」という宣言でもあるのだろうな。
それでまぁ起こることも「そうなるな」てな感じなんだけど、事態の捉え方、解釈、それを画面に演出として還元するということにおいて、この映画の感性は圧倒的。すべてを恐怖に奉仕させるということに、迷いなく振り切っている。ある流れの中で、絶対に描かれて欲しくない事へと、躊躇なくカメラを向けていく。事態への登場人物の反応も実にリアルだけど、ゆえに盲点みたいなところを突いてくる。だからこそ恐怖が伝わる。
凄まじいと思うのは、ケチのつけどころがない映画だということ。
ホラーって、何か瑕疵があっても一点突き抜けていることによって傑作足り得ている、みたいな作品を多く持つジャンルで。
ただ、模範解答的な、間違いがないということによって満点になっている作品ってそうない。で、これがそれ。
ゆえに、スレたホラーオタクじゃなくただ怖いものが見たいだけの普通の人にたくさん見て欲しいなって思った。
ホラーのイメージ変わる。
あと言及したいのが音楽。
なんと、当ブログでも何度か取り上げているコリン・ステットソンが担当している。
非常にマッチしているし、バス・サックスの圧倒的な低音が座席を揺らして映画内の震動を観客にまで伝えてくるような箇所もあり、素晴らしい。


『ディザスター・アーティスト』
これは配信のみのためアマゾンビデオで鑑賞。
本国アメリカではかなりの高評価を得た作品なのだが、なぜ配信スルーかというと、恐らくふたつほど理由がある。
ひとつは、本作はこちらも日本未公開の『The Room』という03年の映画にまつわる実話ベースの物語であること。二本セットで公開するとなるとかなりハードルが上がってくる。
もうひとつは、監督・製作・主演を兼任したジェームズ・フランコが、丁度この映画が波に乗ったところで(近年の流れの中の)セクハラ騒動でケチがついてしまったこと。
さて、映画の内容は上にも書いた『The Room』をつくった二人の男の話。監督・脚本・製作総指揮・主演を務めた謎のおっさんトミー。ひょんなことから彼と深く関わることになった俳優志望のグレッグ。肝心の映画の内容はというと、これが酷い演技・支離滅裂な脚本・寒すぎる演出で初週末の興収1800ドルを叩き出すポンコツっぷり。ところがそのダメさが逆に愛されてカルト化、今でも上映が続いているというもの。
この『ディザスター・アーティスト』という映画の面白さの核は、映画自体が『The Room』に重なるようなつくりをしているという構造じゃないかな。
つまり、上に書いたのを見れば分かる通り、フランコのトミーのコピーっぷりは映画製作手法それ自体にまで及んでいる。中央集権ワンマン体制。出演している役者を見てみれば、セス・ローゲンやザック・エフロンといった友達ばかり(しかも苦笑いで何でも付き合ってくれそうな「絶対イイ奴」って感じの人ばっかだ)。
こういう想像をする。
フランコは本当にトミーのことを好きだったんじゃないか。(笑)抜きで。もしかしたらトミーになりたかったのかもしれない。
だって映画を作るって簡単なことじゃない、どころか、狂気の沙汰みたいなところがある…ってこれもまた二本の映画の間に重ね合わせにされた問いだ。
エキセントリックな「お騒がせ役者」としても知られるフランコだから、その孤独がトミーの姿に重なる。
映画のクライマックス、プレミア上映のシーンでそのことを一層強く思う。
客席に笑いの飛び交うのに耐えられなくなり、席を立ち劇場を出ていくトミー。追いかけてきたグレッグがこう声をかける。
「ヒッチコックはウケたか?」
それでトミーは席に戻っていく。
欲しかったのはこれじゃない、それでも今愛されてる、ほろ苦い多幸感…とても表現したくなる味わいはちょっと他にない。






そういえば今日取り上げた映画、最初の一本除く4本がA24という配給会社の映画で。
ここ凄まじくて、他にもグッド・タイムとかフロリダ・プロジェクトとか、大当たりを連発している。
注目しておくと良い映画が見られるかも。
スポンサーサイト

ヴェノム、マンディ 地獄のロード・ウォリアー、ボヘミアン・ラプソディ、シャドー・オブ・ナイト、イップ・マン 継承、家に帰ると妻が死んだふりをしています。、REVENGE リベンジ、沈黙 サイレンス



なんかもらいました


『ヴェノム』
マーヴェル限らず、今年のアメコミ映画の中で一番好き。
いろいろ理由はあるけど、やっぱりシリーズ、ユニバース的なくびきから自由っていうのがひとつ。自分は全部追うタイプの熱心なファンではないので。やっぱ単体の作品としてどうかっていうのが大事。
ロケーションを活かしていること。サンフランシスコといえば大きな坂が走る美しい街並みで、これを存分に活かした本作は実に「映画らしい」ルックを作り出せている。これって近年のアメコミ大作の中では貴重なことと思える。
役者に必然性がある=役者の映画になっていること。『デッドプール2』ではレイノルズの実人生をきわどく反映した物語が独特な味わいになっていた。本作のトム・ハーディは狂気を演じさせるならこの人、的なところがあって、それだけに特にメインストリームで万能に使えるとは言い難い部分もある人。それがこのイキイキとした演技はどうだろう。水を得た魚、っていうか。極端な二面が一瞬で入れ替わること、正気と狂気のグラデーション、見事としか。それからこれは本作のテーマにも繋がるけど、「シンビオートの適正」なるものが何なのか考えると、それはあらかじめ内面にシンビオートを抱えていること、矛盾した二極に引き裂かれていること、と言えるんじゃないか。この辺は敵役のやろうとしてる事というのを考えるとはっきり分かるけど。そういう意味で、トムハの中にはシンビオートがいるし、なんなら実際に一人二役でそれを演じている。
物語のスケールが小さいこと。ロケーションの話を繰り返すようだけど、本作はひとつの街についての物語でもあると思ってて。それは一番最初のスパイダーマンがやってたところにまで戻ってる。街レベルの世界と、個人の内面。そういう物語が好きだ。
最後に、一番大切なこと。これはネタバレしないように詳細は書けないけど…、最後の戦いの直前、スペースシャトルの発射台を遠目に眺めながら、ヴェノムがある告白をする。何でもなく流しそうになる、さりげない一言。それがどうしようもなく泣けた。あ、そういうことか、だからこの映画って何か愛おしいんだ、って。『かいじゅうたちのいるところ』で「おれの味方はいつもおれだけ」ってセリフあって、それ見た瞬間あり得ない位滝の涙になったんですけど、それ思い出して。今回のセリフは全然違う内容なんだけど、まあその類の深いところで琴線に触れてくるセリフだったなと。


『マンディ 地獄のロード・ウォリアー』


斧持ってきた

これは正にカルト映画として生まれた、ような、歪な作品。生まれた時からカルト化してるって表現的にはおかしいんだけど。
妻を焼き殺されたニコラス・ケイジがカルト集団&化け物と化したバイカー軍団に皆殺しの復讐。この感じでケイジだと近年なら『ヴェンジェンス』とかシリアスなムードを想像するけど、この映画はちょっと違う。上に貼った写真、これを自前で作って振り回すという…なんか、え?って感じだけど。このデザイン、メタルバンドのロゴに由来してるとかで、奥さんも終始いろんなメタルバンドのTシャツ着てたり。表現的にも急にアニメ化したりとか。
もうそのケイジ主演でそんなモンドな、アングラ~なノリってのが分かるような分からないような感じで。
ただ、一番スゴイのが、音楽がヨハン・ヨハンソン&スティーブン・オマリー。
重厚なドローンアンビエントとグラッグラに煮込んだドゥームドローン。
何かもう、何見せられてるんだろうって気分になる。
映像は超サイケデリックな色調でトリップ。
ブリーフ一丁で咆哮するケイジ。
ドローン。
ちょっとこう、ここまでのはなかなか見られないな、って感じの内容だったな。
ヨハン・ヨハンソンに捧ぐって最後に出るけど、こんなメタルノリの人にもリスペクトされてたんだ~っての思うとそこも面白かったり。


『ボヘミアン・ラプソディ』
今一番の話題作なのかな?
新宿TOHOのドルビーアトモスで鑑賞。
正直なところクイーンというバンドには全然興味がなかったんだけど、それでも本作はメチャクチャ楽しめた。
正攻法で直球でゴージャスなエンターテインメント。
『グレイテスト・ショーマン』とか『ラ・ラ・ランド』にも通ずるような、「映画、最高かよ…」ってなる一本。
それでバンドものとしてバッチリ来る感じがまたポイント高い。
曲作りの過程を描くシーンが沢山あるんだけど、こういうアイディアを提示して、このパートから始まって、この音が乗っかって…って。音の構造が理解できることが、ライヴシーンの音響的な楽しさを底上げする。
ストーリーラインも、天狗になっちゃって一度は大切なものを全部失ったフレディが「やっぱオレにはバンドがなきゃダメだわ」つって帰って来る、って話で。そこでバンドのみんながメッチャいい奴ってのも爽やかに効いてくるポイント。
最後のライヴシーンに向けて溜めて溜めて、解放!って構成は音楽映画の王道中の王道だけど、そこに至るまでの映像表現には工夫が凝らされてて。アメリカツアーの箇所なんかかなり驚きの見せ方をしてくる。
で、ラストシーン。歌われる楽曲の歌詞が、悉くそれまでに語られてきた物語を反映してる。だからこそ表面のスゴさだけじゃなく中まで沁みてくる…感情と同期した、ミュージカル的なエモさがあって。そういうクライマックスでの感動の種をさり気なく蒔いてきてた語り口のうまさにも唸らされる。
これはもうね、"ウィー・アー・ザ・チャンピオンズ"っていう言葉に集約されてる感。
つまり、この映画を観た俺たち全員が優勝したんですよ。


こっから旧作
ネトフリとアマゾンビデオで鑑賞

『シャドー・オブ・ナイト』
これは旧作じゃなく新作のネトフリ映画になるのかな。
『ザ・レイド』『ヘッドショット』でお馴染みのモー・ブラザーズが手掛けたアクション。
上の二作どちらの血も入ってるけど、どっちかというと『ヘッドショット』の方向性をより発展させたものに見えた。
やたらとアクの強い殺し屋たちが繰り広げる残虐無残格闘絵巻。
主人公は『レイド』のヒゲのSWAT隊長で、イコ・ウワイスも出てるしでこれまでの作品のファンならそれだけで必見の感じはある。
超絶格闘も、それに付随する過激な人体破壊もバキバキで見応えあり。
物語にはジョン・ウーや北野武へのリスペクトを感じさせるようなところがあって、破滅の美というか、アウトロー映画としての旨味もたっぷり。


『イップ・マン 継承』
これは、語彙が死んだ。凄くて。
ここでのドニー・イェンの拳は、喩えるなら詩の域に達してるなと思ってて。
交し合う拳だけで感情やドラマを語り得るまでのところに行ってる。
殴り合いが劇中の大半を占めるカンフー映画ではあるけど、美しいと思った。


『家に帰ると妻が必ず死んだふりをしています。』
家に帰ると妻が必ず死んだふりをしているという話。
『ママは日本に嫁に行っちゃダメと言うけれど。』という映画について以前書いたけど、この手の映画で良くなる条件のひとつって、映像にせよ音楽にせよ、語りすぎないこと、見せすぎないこと、余白を残しておくことかなって思っている。
宛て先を広くとるほど難しくなるそれを、こなせていること。
何かそれが出来ていて、かつ軽く流せるだけじゃない適度な重み苦みがあって、それで甘さが生きているみたいな作品、そういうのがたまにある。
だったらこういう映画をオレはたまには見ていきたいなと思った…という話。


『REVENGE リベンジ』
タイトル通りの王道レイプ・リベンジ。
ところがどうしてこれが完成度高い。
レフンっぽい超ビビッドな色彩感覚、手持ちカメラの長回しで演出する荒削りなサスペンス、血糊量もハンパないウルトラバイオレンス。いかにもミッドナイトマッドネスらしい、クリシェへの愛情とそれを更新しようとする前のめりなエネルギーがせめぎあう素敵な作品。
そんでなんと若い女性監督の作品と。
いや女性だからどうとか言うつもりは当然ないけど、ただこのジャンルってやっぱ男の監督ばっか作ってるのもおかしいっていうか、それこそ一種の暴力構造の温存じゃん、みたいなこと思わないでもないし、だから痛快とも感じた。
むせ返るような熱量とエネルギーを浴びてるだけでも楽しめる作品だけど、『RAW 少女のめざめ』あたりからの思春期ガールホラーの流れの中に位置づけても面白いんじゃないかと思った一作。


『沈黙 サイレンス』
マーティン・スコセッシ監督作。
自分の中で最近のだと『ウルフ・オブ・ウォールストリート』の印象が強かったのでギャップに驚いた。
たださすがスコセッシ。完成度メチャ高い。
日本人が洋画とか海外の物語を受け取るときに、一番理解しづらいのが信仰にかかわる部分だと思っている。
その意味で、この映画を観ていると「信仰」にまつわる感情が流れ込んでくる、感情として理解できるってのが凄い所。
教科書的な記述じゃ分からないディティールを感情に訴える形で描き込むことで、その史実なり歴史上のイベントなりが、自分の中で立体感を持って立ち上がって来る。
やっぱこういう歴史映画って、それだよな、って思う。
踏み絵って、今を生きる我々からすると、本当によく分からないもののひとつなんだけど。何の葛藤があるの?踏めばいいじゃん、って。
そういうものがまさに感情のレベルで理解できる、しかも海外の話でもなくかつての日本人たちの話、っていう。こういう形での信仰ってかつてここにあったんだ、ってことに、なにか気が遠くなるような。
映画的な表現の部分で驚いたのが、音響。
ほぼ劇伴使ってないけど、代わりに環境音をかなりダイナミックに活用してる。オープニングからそうだけど、ザワザワザワと遠くからやって来ていつの間に周囲を取り囲んだり、密度の濃淡が次々変化していったり、波音や鈴虫の声のような特定の音が特定の意味を担って強調されてきたり。
構築型のフィールドレコーディング作品のような。
作品タイトルにある通りの沈黙、無音も存分に活用される。
これはヘッドホンで聴いてて何度も驚いたし、演出の手段としてこう来るかと唸らされた。

デス・ウィッシュ、テルマ、search サーチ

個人的に西川美和監督週間という感じで、旧作を見てたのですけど、エッセイ『映画にまつわるxについて』読んでみたらこれもえらく面白い。
普段何となく見てる映画内の描写や表現の中に、これだけの葛藤や逡巡が織り込まれていたのだなと。


今日は現在劇場でかかっている新作映画三本。


『デス・ウィッシュ』
イーライ・ロスがブルース・ウィリスを主演に迎えド・メジャーなバイオレンスアクションに挑んだという作品。
『狼よさらば』が原作と書いてあるけど、まあ僕は見たことない。本作は多分観なくても問題なく楽しめるかと。
観て思ったのが、イーライ・ロス、普通にめっちゃ巧みな映画監督になってるやん…という。
ワンカット風で長い時間経過を表現するショット、スプリットスクリーン等、小洒落た感じに見せたかと思いきや、暴力の予兆めいたシーンではじっくりと緊迫感を醸成するホラー譲りのテクニックを披露。
ギリギリエンタメといったところのファンサービス的残虐描写もチラっと覗かせる。
しかしながら全体のノリは痛快リベンジアクションで、ここぞというところで鳴り響くバック・イン・ブラックのリフがそれを象徴しているかと。
たまには『グリーン・インフェルノ』のような変態性癖モロ出しの作品も手掛けて欲しく思うものの、こういうのも全然やってっていいじゃんという感想。


『テルマ』
北欧百合ホラー。
超能力というのは映画的な現象だよな、と兼ねがね思っていて。
どういう事かというと、映画的表現、という言葉の意味は、ひとつには「比喩や見立てを通して内面を外世界に投影すること」。
つまり、登場人物がボロボロに傷ついて虚ろな心境で歩いていたら、雨が降っている、とか、問題が解決して状況が良くなっていくという場面でタイミングよく日が昇り朝が来たりとか。
これは現実においては逆で、世界のほうが我々の内面に影響を及ぼしてくることが多い。我々の内面を世界に反映するには、手足という、内面じゃなく世界=物理、現実の側に属するもので外世界に干渉していかないといけない。
こうして考えると、超能力というのは映画的表現そのもので。
内面、願いとか想いとかいうもの、を、直接外世界に反映させる。
ここで『テルマ』に戻ると、本作はそんな超能力を様々な奇抜で実験的な音響/映像表現で描いている。中でも特徴的なのは、異常にカッコいいタイトルバックから炸裂し、劇中でも重要なシーンで用いられる、ストロボライト的表現。
この表現手法が我々の身体を傷つけるかもしれないということを、あのポケモン事件以降の我々は知っている。冒頭に警告が出ることからも、主人公のテルマが能力を発現させる際に「癲癇に似た痙攣」を発症することからも、恐らく監督は意図的にやっていると思うけど。
真っ暗な映画館でこのストロボ表現を見る、いや浴びるというのは不思議な体験で、その「映画がこの身体を直接攻撃してくる(かもしれない)」ということをもって、映画と現実の境目がおぼろげになってくる。
で、その、スクリーンの向こうからの現実への攻撃でもってテルマが撃とうとしているものは何かというと、ひとつは「家父長制」というか、「父性」、「父の権力性」で、もうひとつは─これがより重要だと思うけど─映画ではキリスト教に象徴されている「旧態依然とした社会通念」で、これはテルマが焦がれている女の子への想いを叶えるために照準されている。
これってもう、まさにこの社会に向けて…、今この社会を撃つために、明確な狙いで放たれている銃弾というか。
それを思うと、ゾクッとするような鋭さを持った、美しいのにパンキッシュでもある奇妙な映画だよなと思う。


『search サーチ』
全編PC画面上で展開する、という触れ込みは傑作ホラー『アンフレンデッド』を思い起こさせるけど、こちらもベクマンベトフがプロデュースでかかわっているとのこと。
本当にそのままのPC画面を見せていた『アンフレンデッド』に対して『サーチ』では画面の必要な箇所にズーム、パンしていったり、劇伴も全編に渡って使われていたり、より映画らしいルックになっている。
まぁこれは良し悪しあって、「この世界の片隅で確かに存在しているかもしれない」ファウンドフッテージの延長として考えるなら前者が正解なんだけど(PCビューの映画という表現をまさに自分はその文脈で考えていたんだけど)、ドラマを語るための手段として用いるなら全然アリなやり方だと思う。
で、この『サーチ』、単純にサスペンス、ミステリーとして抜群に面白い。
二転三転しながらこちらの興味を一瞬たりとも放さない絶妙なストーリーテリング。父娘のドラマとしても秀逸なもので…ってか正直に書くと泣きました、オレは。
まあそんな感じで手段と目的が逆になってないのが美点かなと。
PCビューならではの方法で盛り上げる箇所も、こう来たか!の連続であり、特にお馴染みのあの「草原」で一瞬で強力なノスタルジーと共に映画の世界に引き込む冒頭、また誰もが知っている「設定」を最大のエモーショナルへと変換するクライマックスにはヤられる。
これは文句なしに面白い。
インド系監督がアジア人キャストで撮った映画、ということも痛快で…、自分なんかはやっぱり、インドの人が作る映画って『バーフバリ』みたいなのだろ?みたいなのに対してうーん…ってとこがあるので。


SEEDS | Google Glass from Aneesh Chaganty on Vimeo.


これは監督が以前にグーグルグラスで制作した2分半の短編なのだけど、もう才気迸ってるなあと。
食事と家族のイメージ反復、一瞬封筒を失くしかける所のサスペンス、洗濯物を干す母親のシーンのキメ絵としての圧倒的な強度…など隙がない。もとの素材がどれだけの長さあったんだろう?と考えると、ちょっと気が遠くなる。

クワイエット・プレイス、ダウンレンジ、教誨師

毎日映画を見てるので、ここ最近で特に印象に残ったやつについて書いていきます。
引き続き、今回は映画館で観た新作編です。


『クワイエット・プレイス』
昨今の新作ホラーの中では、話題になっていると言っても良いのでは?
ホラーオタク特有の面倒臭い自意識で、この手のモンは話題になるようなヤツほど大した事ねえんだよなぁ~っみたいな事を思いながら観に行ったのですけど、これが素晴らしかったですね。
音を出したら死ぬ、という単純明快なルールは『ドント・ブリーズ』あたりにも通ずるところで、それをより突き詰めたバージョンといっても良いかもしれない。
で、この「音出し禁止」ルールが映画において有効に働くのは、それが「映画館では音を立ててはいけない」というルールと重なってくるからではないかと。
登場人物たちと観客を巧妙に同じ条件下に誘い出すことで、一段階上の没入感を演出している。
劇場に静寂が満ちるたび、客席全体が息を呑むのを感じるという稀有な体験。
更に『ドント・ブリーズ』にはなかった独特の演出として、一人称のサウンドデザインというのがある。
登場人物の聴こえているままを映画の音響としても聴かせる、ということなのだけど、主人公の一家の中に聾の子どもがいて、この子のパートでは音は完全な無音になるわけ。このあたりは普通の映画を観ていてはあり得ない体験で、全く新鮮な緊張感を与えてくれる。
余計な説明も何も挟まず、いきなり映画の支配下に観客を引きずりこむタイトなストーリーテリングも魅力。
映画館でしか機能しない映画ゆえに、ぜひ映画館で観て欲しいと思います。

てかこれ観たのが宝塚地下の東宝だったのですけど、あれって位置的に旧スカラ座ですよね。
『ドント・ブリーズ』観たのがスカラ座だったので、何か場の記憶的なものを感じた。


『ダウンレンジ』
『ミッドナイト・ミートトレイン』という映画があって、本当にとんでもない展開をする話で自分は結構好きなのだが、その映画を撮ってた北村龍平監督が久々に低予算ホラーを撮ったというので観てみた。
荒野の道ででかい車のタイヤがパンクするカットから始まる。6人の若者が車からぞろぞろ出てくる。ド田舎で、携帯の電波も入らない。電波を探す女の子が、ちょっと道を歩いていって、あ、入った…と思ったところで、何となく目をやった道端に朽ちた花束と写真の額縁を見かける。事故があったのか。こんな何もない道で?と思う。そんな中、車のタイヤ交換に取り掛かった男の子が潰れたタイヤを取り外す。コロコロと何かが転がり落ちてくる。金属片?よく見るとそれは銃弾だ……
という話。
本当に何もない道の上の、しかも全長にして100mもない世界の上で物語が展開する。回想とか、電話の向こうとか、時間空間的なジャンプもしない。何の説明もない。でも恐怖のためにはそれで充分だと分かる。起こってみれば、そうなることは予測できた…なのに想像から除外していた最悪のことが、次々と起きる。
ワンシチュエーションの中に常軌を逸した痛みと絶望を盛り合わせた本作は、超常的なことなど何もないにもかかわらず、ジャンルホラーの芯を捉えていると思う。
近年もアメリカでとんでもない無差別狙撃事件とか起きているのをニュースで見るけど、あれってこんなに怖いものなんだ、というのを嫌になるまで見せられる。
かなり精神拷問されるけど文句なしに面白い。


『教誨師』
遺作、というものは不思議だと思う。
優れた作家、役者であればあるほど、遺作は、その人の人生を映したような、そんなイメージをまとう。
でも、「これで最後にする」と自ら区切りとして作ったものでない限り、作家や役者自身は、作品を作っている時点ではそれが遺作になると知らないはずだ。
すべての作品に全力を注ぐのがプロフェッショナルだ、と言われればそれまでなんだけど、でもやっぱり遺作って特別なものだよな、とそれをこの映画を観て改めて思った。
大杉漣さんの最初のプロデュース作にして最後の主演作がこの映画。
タイトルになっている教誨師というのは、刑務所や少年院、拘置所を訪れて受刑者と話をする宗教家のこと。政教分離の原則のため、ボランティアで行われる。
日本では仏教僧が多数派だけど、本作で大杉さんが演じるのはプロテスタントの牧師になっている。
言うまでもなく少年院や刑務所というのは基本的には矯正施設であるから、そこで行われることは被収容者の更生のために行われている。ただ、ここに日本特有の歪みが生まれてくる。
先進国で死刑があるのは、実質日本と米国だけ。
これから死刑になる人を更生させる意味があるのだろうか。というか、その人に対して、何ができるのか。何を語れるのか。
そういう問いが生まれてくる。
本作はソリッドにほとんどを教誨室での教誨師と死刑囚との対話のみで構成し、そこから「これは何なのか」ということを真摯に取り出そうとする。
その中にあって立ち上がってくるのは、意外にも、語りというものの豊かさだ。
あるものは雄弁にまくし立て、あるものは押し黙り、あるものは盛大に笑い、あるものは不満をぶちまける。そんなやり取りの中で、いつしか語りが閾値を超えていく。ふいに感情が堰を切ったり、すべてが嘘になったり、俗なものの中から聖性めいたものが立ち上がったり…、そんなドラマティックな驚きがいくつも配されていて、登場する6人の死刑囚それぞれの物語…語りという断片から類推するしかない物語…が全編を実に様々な色彩で彩る。真っ白な部屋で。
命を奪うことが駄目だから罰せられる、じゃあなんでその方法が命を奪うことなんだよ。そんな言葉のひとつひとつもまた突き刺さってくるよう。
その中で思わされるのが、もちろん彼らの語る内容はフィクションではあるのだけど(明らかに参考にしている事件が見えたり危ういものもあるが)、語り口のレベルではそんなに嘘はないかもしれない、ということ。
つまり、役者そのもの。役者そのものの人生が刻まれているから、こんなにも強い揺さぶりを掛けてくるのではないかな。
それは大杉さんもそう。聞き役のはずが、対話はいつしか時に決闘めいた色合いすら帯びてくる。
何度も書いているけど、やはりいまの邦画が持っている宝は、役者だ。どの役者も鬼気迫る熱演を見せてくれる。
甲乙つけがたいけど、自分は古館寛治さんに驚いた。今まで受けの演技の名手としてあまりエゴを表に出さない演技を多くこなしてきたと思うのだけど、今回は途中までそこをなぞりつつ…役者としての自分のイメージまで利用してこの人がもたらす「語りのドラマ」は何とも強烈だった。

これは非常に素晴らしかった。
しかし自分の中で「一人目は誰だったのか」ってのが「あの人かなあ」と思いつつも結構引っかかってるのですが、観た人、どうでしょう。


そんな感じで最近観た映画でした。

あさがくるまえに、ゆれる、幼な子われらに生まれ、ビッグ・シック、キャットファイト

毎日映画を見てるので、ここ最近で特に印象に残ったやつについて書いていきます。

旧作はアマゾンビデオで鑑賞しています。
映画館で鑑賞の新作は、記事を改めて書こうと思います。

『あさがくるまえに』
これは一昨日見たので一番記憶が鮮明かな。
フランス映画。
事故で脳死状態の少年の家族と、移植用の健康な心臓を待っている心臓病患者の家族を描いたドラマ。
何か鈍重そうな話だなと思われるかもだけど、そんなことは全然ない。100分という尺の中を疾走している。
というのも、臓器移植って時間が命で。
脳死状態になった少年の家族が臓器提供の話を持ち掛けられて「臓器が移植できるのは脳死から48時間までなんで、一日で決めて下さい」と言われる。
それでいざ決まると、これ本当に驚きなんだけど、心臓って摘出したら4時間しか持たないんだよね。
いや、同じ手術室で2人並べて移し替えればいいじゃん、って思うかもだけど、臓器移植ってドナーとレシピエントの間に接触があってはいけないってのが鉄則で。まぁ考えれば理由は分かるけど。
だから別々の病院でやるんだけど、これどうするかっていうと、日付が変わる頃に摘出を始めて深夜の道路を白バイ先導で爆走して心臓届けるというですね。
このへんのくだりとか、そう、命のリレーなんて表現があるけど、あれは言い得て妙だと分かる。バトンを繋ぐために、幾人ものプロフェッショナルが全力で走る。
フランス映画らしい奥ゆかしさというか、感情に寄り添いすぎないフラットな演出をされている。それでも、命を繋ぐために走る人々のダイナミズムから、生命というもののスゴさ、尊さ、強さみたいなものが充分に浮かび上がってくる。
映像ははっとするような美しさがあり、エンドロールもここでこの神曲~~~!という感じで非常におすすめ。
これは分かる人だけ分かってくれって感じだけど、まなびストレートのオープニング映像を100分に拡張したバージョン、って印象も持った。


『ゆれる』
こちらも傑作な『永い言い訳』の西川美和監督の06年作。
まず、前提を受け入れて貰わないと始まらないのだが、オダギリジョーと香川照之が兄弟。そんなアホなと思うかもだけど、これが映画を観進めるにつれ良い効き方をしてくるんで。
弟オダギリは東京で写真家として成功している一方、兄香川さんは地元で家業のガソリンスタンドを継いでいる。
法事で弟が地元に帰ってくると、親戚連中からあからさまに冷たくされる。兄だけが優しく受け入れてくれる。
ところがそれからすぐに、ある事件で兄が容疑者になってしまう。弟は現場に居合わせた為に証言台で証言をすることになる。
そのときに何があったのかをはっきりさせるために面会を重ねるうち、二人の関係が揺らぎだす…という話。
『凶悪』や『三度目の殺人』にも通ずる面会ドラマ。
兄弟を演じる二者の演技がとにかく素晴らしい。
「中におっさんが住んでいる」とか言われている西川美和監督の(女性監督だから、女性監督なのに、とか言うつもりないけど)男心の機微を捉えた演出も抜群で、近い境遇の家庭の人だとどっぷりと感情移入させられるんじゃないかな。
歳が近かったり、他のきょうだいがいなかったり、双子だったり、そんな理由で距離の近い兄弟の関係って、本当に微妙なもので。一番親密な、「ほぼ自分」というような他者であり、分け合って生きるものであると同時に、最も原始的な関係としての、奪い合う敵でもある。
家族の、兄弟の自明性を厳しく問い直すような内容ではあるけど、ラストにはほろ苦くじわりと沁みる優しさがある。


『幼な子われらに生まれ』
三島由紀子監督の映画は初めて見た。
浅野忠信が小さな女の子と遊園地で遊んでいるシーンから始まる。
どうもそれが前妻との間の娘で、親権はあちらにあると。それで、浅野忠信は再婚していて、家に帰れば今の奥さんの連れ子の女の子が二人いる、といういわゆるステップファミリー。
で、そのイマ妻との間に子供ができるというところでドラマが動く。
連れ子の長女が浅野忠信を激しく拒絶し始め、ついには「この人、パパじゃないもん。本当のパパに会わせてよ」とか言い出す。
なんかこれはわかる。
それまで妻方の親子が三人のところに浅野忠信が入って来たという形だったのが、浅野忠信と奥さんとその子どもが家族になって、自分たちは余ってしまうのではないか?という、そういうことだよね。それを本能的になのか感じとったと。
親子という関係は。血縁か一緒に過ごした時間か?という是枝的な問いの変奏でもある。
この映画が見せるこの問いの難しい側面は何かというと、本当のところではこの問いの答えって分かってるわけよ。でも、それはそれとして、子どもは時に残酷なほどのやり方で親の愛を試すよ、っていう…これ、書いてて自分も悶えそうになるけど。皆さんも身に覚えがあるかと思いますが。
親戚にほぼ同じ境遇の人がいるから、スッと入って来る話だったな。再婚だって今じゃ珍しくない。これって普通にそこら中にある話で、だからドラマティックに飾り立てるでもなく、人間ってスゲーのよ?っていう。
エレカシの"悲しみの果て"が二度使われるのだけど、その二度目のところは本当に震える。大げさでもスペクタクルでもない、家族の、人の、普通のドラマに、だからこそ訪れる美しすぎる映画的カタルシス。


『ビッグ・シック 僕たちの大いなるめざめ』
クメイル・ナンジアニという、アメリカで実際に活動しているパキスタン人コメディアンの実人生を映画化している。
クメイルは親に「芸人でもなんでもいいけど、ムスリムの伝統を守って。それだけが願いよ」と言われるのだが、「それは無理」と。
「恋に落ちたから」。
お堅い話を想像するかもだけど、中身はラブコメ。見合い結婚の伝統を巡ってひと悶着あるという話。
人種・信仰・家族…と彼女との間には二人で立ち向かうには土台デカすぎる壁が乱立してるのだが、クメイルはこれを笑いでいなしていく。
ISISネタ多し、ブラックなムスリムジョークが次々炸裂する。
「モスクでは"1600年前に同胞が殺された"という話を聴かされる。すると誰かが泣き始める。でも僕は泣けなかった。僕が泣けたのは『カールじいさんの空飛ぶ家』だけ」。
とそんな話でありつつも、例えばリチャード・カーティスの諸作のような、「笑って泣けるハートウォーミングなラブコメ」としての風格すら纏っている見事な出来。
上でも挙げたような世界を取り巻く諸問題について考えていると暗澹とした気持ちになる時も多いけど、これ見て空気を入れ換えてみるのもいいかもですね。


『キャットファイト』


大学時代に友人だった女性二人が、20年後に片方はセレブ妻でもう片方は画家志望の万年フリーターになってる。ずっと音信不通だった二人がある時パーティーで再会する。正反対の自分たちを見て気付く。本当はあの頃からあんたの事、ムカついてた。で、ネチネチやり始めるのかと思いきや、いきなり殴り合いを始める二人…という話。
二人の人生を追いかけながら、そのポイントポイントにてタイマン張って殴り合う、という内容。
これも上の『ビッグ・シック』と似たテーマを扱ってるかもしれない。
戦争、同性愛、格差、とアメリカの縮図めいた問題用紙を掲げてくるのだけど、ここでは明確に、殴り合えば解決!という。超ハードコアなトムとジェリーかな。
シニカルなコメディではあるけど、これ見てると「悲劇と喜劇は同じ出来事の裏表」みたいな言葉を思い出す。
正反対なものほどよく似ている。対の極と極にあるものが、実際にはメビウスの輪のように繋がっている。
ドロドロした諍いのほうに行かず、小気味よすぎる打撃音響かせながら殴り合うんで、爽やかな後味が残る。
だからこそひとさじのほろ苦い人間の悲しさも効いてる。

 

プロフィール

 

伊達さん

Author:伊達さん
恐怖と雑音と
カワイイだけがオレの信仰
about

拍手する

 

最新記事

 
 

カテゴリ

 
 

月別アーカイブ

 
 

検索フォーム

 

 

twitter

 

 

リンク

 
 

FC2カウンター

 

 

RSSリンクの表示

 
 

最新コメント

 
 

最新トラックバック