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クワイエット・プレイス、ダウンレンジ、教誨師

毎日映画を見てるので、ここ最近で特に印象に残ったやつについて書いていきます。
引き続き、今回は映画館で観た新作編です。


『クワイエット・プレイス』
昨今の新作ホラーの中では、話題になっていると言っても良いのでは?
ホラーオタク特有の面倒臭い自意識で、この手のモンは話題になるようなヤツほど大した事ねえんだよなぁ~っみたいな事を思いながら観に行ったのですけど、これが素晴らしかったですね。
音を出したら死ぬ、という単純明快なルールは『ドント・ブリーズ』あたりにも通ずるところで、それをより突き詰めたバージョンといっても良いかもしれない。
で、この「音出し禁止」ルールが映画において有効に働くのは、それが「映画館では音を立ててはいけない」というルールと重なってくるからではないかと。
登場人物たちと観客を巧妙に同じ条件下に誘い出すことで、一段階上の没入感を演出している。
劇場に静寂が満ちるたび、客席全体が息を呑むのを感じるという稀有な体験。
更に『ドント・ブリーズ』にはなかった独特の演出として、一人称のサウンドデザインというのがある。
登場人物の聴こえているままを映画の音響としても聴かせる、ということなのだけど、主人公の一家の中に聾の子どもがいて、この子のパートでは音は完全な無音になるわけ。このあたりは普通の映画を観ていてはあり得ない体験で、全く新鮮な緊張感を与えてくれる。
余計な説明も何も挟まず、いきなり映画の支配下に観客を引きずりこむタイトなストーリーテリングも魅力。
映画館でしか機能しない映画ゆえに、ぜひ映画館で観て欲しいと思います。

てかこれ観たのが宝塚地下の東宝だったのですけど、あれって位置的に旧スカラ座ですよね。
『ドント・ブリーズ』観たのがスカラ座だったので、何か場の記憶的なものを感じた。


『ダウンレンジ』
『ミッドナイト・ミートトレイン』という映画があって、本当にとんでもない展開をする話で自分は結構好きなのだが、その映画を撮ってた北村龍平監督が久々に低予算ホラーを撮ったというので観てみた。
荒野の道ででかい車のタイヤがパンクするカットから始まる。6人の若者が車からぞろぞろ出てくる。ド田舎で、携帯の電波も入らない。電波を探す女の子が、ちょっと道を歩いていって、あ、入った…と思ったところで、何となく目をやった道端に朽ちた花束と写真の額縁を見かける。事故があったのか。こんな何もない道で?と思う。そんな中、車のタイヤ交換に取り掛かった男の子が潰れたタイヤを取り外す。コロコロと何かが転がり落ちてくる。金属片?よく見るとそれは銃弾だ……
という話。
本当に何もない道の上の、しかも全長にして100mもない世界の上で物語が展開する。回想とか、電話の向こうとか、時間空間的なジャンプもしない。何の説明もない。でも恐怖のためにはそれで充分だと分かる。起こってみれば、そうなることは予測できた…なのに想像から除外していた最悪のことが、次々と起きる。
ワンシチュエーションの中に常軌を逸した痛みと絶望を盛り合わせた本作は、超常的なことなど何もないにもかかわらず、ジャンルホラーの芯を捉えていると思う。
近年もアメリカでとんでもない無差別狙撃事件とか起きているのをニュースで見るけど、あれってこんなに怖いものなんだ、というのを嫌になるまで見せられる。
かなり精神拷問されるけど文句なしに面白い。


『教誨師』
遺作、というものは不思議だと思う。
優れた作家、役者であればあるほど、遺作は、その人の人生を映したような、そんなイメージをまとう。
でも、「これで最後にする」と自ら区切りとして作ったものでない限り、作家や役者自身は、作品を作っている時点ではそれが遺作になると知らないはずだ。
すべての作品に全力を注ぐのがプロフェッショナルだ、と言われればそれまでなんだけど、でもやっぱり遺作って特別なものだよな、とそれをこの映画を観て改めて思った。
大杉漣さんの最初のプロデュース作にして最後の主演作がこの映画。
タイトルになっている教誨師というのは、刑務所や少年院、拘置所を訪れて受刑者と話をする宗教家のこと。政教分離の原則のため、ボランティアで行われる。
日本では仏教僧が多数派だけど、本作で大杉さんが演じるのはプロテスタントの牧師になっている。
言うまでもなく少年院や刑務所というのは基本的には矯正施設であるから、そこで行われることは被収容者の更生のために行われている。ただ、ここに日本特有の歪みが生まれてくる。
先進国で死刑があるのは、実質日本と米国だけ。
これから死刑になる人を更生させる意味があるのだろうか。というか、その人に対して、何ができるのか。何を語れるのか。
そういう問いが生まれてくる。
本作はソリッドにほとんどを教誨室での教誨師と死刑囚との対話のみで構成し、そこから「これは何なのか」ということを真摯に取り出そうとする。
その中にあって立ち上がってくるのは、意外にも、語りというものの豊かさだ。
あるものは雄弁にまくし立て、あるものは押し黙り、あるものは盛大に笑い、あるものは不満をぶちまける。そんなやり取りの中で、いつしか語りが閾値を超えていく。ふいに感情が堰を切ったり、すべてが嘘になったり、俗なものの中から聖性めいたものが立ち上がったり…、そんなドラマティックな驚きがいくつも配されていて、登場する6人の死刑囚それぞれの物語…語りという断片から類推するしかない物語…が全編を実に様々な色彩で彩る。真っ白な部屋で。
命を奪うことが駄目だから罰せられる、じゃあなんでその方法が命を奪うことなんだよ。そんな言葉のひとつひとつもまた突き刺さってくるよう。
その中で思わされるのが、もちろん彼らの語る内容はフィクションではあるのだけど(明らかに参考にしている事件が見えたり危ういものもあるが)、語り口のレベルではそんなに嘘はないかもしれない、ということ。
つまり、役者そのもの。役者そのものの人生が刻まれているから、こんなにも強い揺さぶりを掛けてくるのではないかな。
それは大杉さんもそう。聞き役のはずが、対話はいつしか時に決闘めいた色合いすら帯びてくる。
何度も書いているけど、やはりいまの邦画が持っている宝は、役者だ。どの役者も鬼気迫る熱演を見せてくれる。
甲乙つけがたいけど、自分は古館寛治さんに驚いた。今まで受けの演技の名手としてあまりエゴを表に出さない演技を多くこなしてきたと思うのだけど、今回は途中までそこをなぞりつつ…役者としての自分のイメージまで利用してこの人がもたらす「語りのドラマ」は何とも強烈だった。

これは非常に素晴らしかった。
しかし自分の中で「一人目は誰だったのか」ってのが「あの人かなあ」と思いつつも結構引っかかってるのですが、観た人、どうでしょう。


そんな感じで最近観た映画でした。
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あさがくるまえに、ゆれる、幼な子われらに生まれ、ビッグ・シック、キャットファイト

毎日映画を見てるので、ここ最近で特に印象に残ったやつについて書いていきます。

旧作はアマゾンビデオで鑑賞しています。
映画館で鑑賞の新作は、記事を改めて書こうと思います。

『あさがくるまえに』
これは一昨日見たので一番記憶が鮮明かな。
フランス映画。
事故で脳死状態の少年の家族と、移植用の健康な心臓を待っている心臓病患者の家族を描いたドラマ。
何か鈍重そうな話だなと思われるかもだけど、そんなことは全然ない。100分という尺の中を疾走している。
というのも、臓器移植って時間が命で。
脳死状態になった少年の家族が臓器提供の話を持ち掛けられて「臓器が移植できるのは脳死から48時間までなんで、一日で決めて下さい」と言われる。
それでいざ決まると、これ本当に驚きなんだけど、心臓って摘出したら4時間しか持たないんだよね。
いや、同じ手術室で2人並べて移し替えればいいじゃん、って思うかもだけど、臓器移植ってドナーとレシピエントの間に接触があってはいけないってのが鉄則で。まぁ考えれば理由は分かるけど。
だから別々の病院でやるんだけど、これどうするかっていうと、日付が変わる頃に摘出を始めて深夜の道路を白バイ先導で爆走して心臓届けるというですね。
このへんのくだりとか、そう、命のリレーなんて表現があるけど、あれは言い得て妙だと分かる。バトンを繋ぐために、幾人ものプロフェッショナルが全力で走る。
フランス映画らしい奥ゆかしさというか、感情に寄り添いすぎないフラットな演出をされている。それでも、命を繋ぐために走る人々のダイナミズムから、生命というもののスゴさ、尊さ、強さみたいなものが充分に浮かび上がってくる。
映像ははっとするような美しさがあり、エンドロールもここでこの神曲~~~!という感じで非常におすすめ。
これは分かる人だけ分かってくれって感じだけど、まなびストレートのオープニング映像を100分に拡張したバージョン、って印象も持った。


『ゆれる』
こちらも傑作な『永い言い訳』の西川美和監督の06年作。
まず、前提を受け入れて貰わないと始まらないのだが、オダギリジョーと香川照之が兄弟。そんなアホなと思うかもだけど、これが映画を観進めるにつれ良い効き方をしてくるんで。
弟オダギリは東京で写真家として成功している一方、兄香川さんは地元で家業のガソリンスタンドを継いでいる。
法事で弟が地元に帰ってくると、親戚連中からあからさまに冷たくされる。兄だけが優しく受け入れてくれる。
ところがそれからすぐに、ある事件で兄が容疑者になってしまう。弟は現場に居合わせた為に証言台で証言をすることになる。
そのときに何があったのかをはっきりさせるために面会を重ねるうち、二人の関係が揺らぎだす…という話。
『凶悪』や『三度目の殺人』にも通ずる面会ドラマ。
兄弟を演じる二者の演技がとにかく素晴らしい。
「中におっさんが住んでいる」とか言われている西川美和監督の(女性監督だから、女性監督なのに、とか言うつもりないけど)男心の機微を捉えた演出も抜群で、近い境遇の家庭の人だとどっぷりと感情移入させられるんじゃないかな。
歳が近かったり、他のきょうだいがいなかったり、双子だったり、そんな理由で距離の近い兄弟の関係って、本当に微妙なもので。一番親密な、「ほぼ自分」というような他者であり、分け合って生きるものであると同時に、最も原始的な関係としての、奪い合う敵でもある。
家族の、兄弟の自明性を厳しく問い直すような内容ではあるけど、ラストにはほろ苦くじわりと沁みる優しさがある。


『幼な子われらに生まれ』
三島由紀子監督の映画は初めて見た。
浅野忠信が小さな女の子と遊園地で遊んでいるシーンから始まる。
どうもそれが前妻との間の娘で、親権はあちらにあると。それで、浅野忠信は再婚していて、家に帰れば今の奥さんの連れ子の女の子が二人いる、といういわゆるステップファミリー。
で、そのイマ妻との間に子供ができるというところでドラマが動く。
連れ子の長女が浅野忠信を激しく拒絶し始め、ついには「この人、パパじゃないもん。本当のパパに会わせてよ」とか言い出す。
なんかこれはわかる。
それまで妻方の親子が三人のところに浅野忠信が入って来たという形だったのが、浅野忠信と奥さんとその子どもが家族になって、自分たちは余ってしまうのではないか?という、そういうことだよね。それを本能的になのか感じとったと。
親子という関係は。血縁か一緒に過ごした時間か?という是枝的な問いの変奏でもある。
この映画が見せるこの問いの難しい側面は何かというと、本当のところではこの問いの答えって分かってるわけよ。でも、それはそれとして、子どもは時に残酷なほどのやり方で親の愛を試すよ、っていう…これ、書いてて自分も悶えそうになるけど。皆さんも身に覚えがあるかと思いますが。
親戚にほぼ同じ境遇の人がいるから、スッと入って来る話だったな。再婚だって今じゃ珍しくない。これって普通にそこら中にある話で、だからドラマティックに飾り立てるでもなく、人間ってスゲーのよ?っていう。
エレカシの"悲しみの果て"が二度使われるのだけど、その二度目のところは本当に震える。大げさでもスペクタクルでもない、家族の、人の、普通のドラマに、だからこそ訪れる美しすぎる映画的カタルシス。


『ビッグ・シック 僕たちの大いなるめざめ』
クメイル・ナンジアニという、アメリカで実際に活動しているパキスタン人コメディアンの実人生を映画化している。
クメイルは親に「芸人でもなんでもいいけど、ムスリムの伝統を守って。それだけが願いよ」と言われるのだが、「それは無理」と。
「恋に落ちたから」。
お堅い話を想像するかもだけど、中身はラブコメ。見合い結婚の伝統を巡ってひと悶着あるという話。
人種・信仰・家族…と彼女との間には二人で立ち向かうには土台デカすぎる壁が乱立してるのだが、クメイルはこれを笑いでいなしていく。
ISISネタ多し、ブラックなムスリムジョークが次々炸裂する。
「モスクでは"1600年前に同胞が殺された"という話を聴かされる。すると誰かが泣き始める。でも僕は泣けなかった。僕が泣けたのは『カールじいさんの空飛ぶ家』だけ」。
とそんな話でありつつも、例えばリチャード・カーティスの諸作のような、「笑って泣けるハートウォーミングなラブコメ」としての風格すら纏っている見事な出来。
上でも挙げたような世界を取り巻く諸問題について考えていると暗澹とした気持ちになる時も多いけど、これ見て空気を入れ換えてみるのもいいかもですね。


『キャットファイト』


大学時代に友人だった女性二人が、20年後に片方はセレブ妻でもう片方は画家志望の万年フリーターになってる。ずっと音信不通だった二人がある時パーティーで再会する。正反対の自分たちを見て気付く。本当はあの頃からあんたの事、ムカついてた。で、ネチネチやり始めるのかと思いきや、いきなり殴り合いを始める二人…という話。
二人の人生を追いかけながら、そのポイントポイントにてタイマン張って殴り合う、という内容。
これも上の『ビッグ・シック』と似たテーマを扱ってるかもしれない。
戦争、同性愛、格差、とアメリカの縮図めいた問題用紙を掲げてくるのだけど、ここでは明確に、殴り合えば解決!という。超ハードコアなトムとジェリーかな。
シニカルなコメディではあるけど、これ見てると「悲劇と喜劇は同じ出来事の裏表」みたいな言葉を思い出す。
正反対なものほどよく似ている。対の極と極にあるものが、実際にはメビウスの輪のように繋がっている。
ドロドロした諍いのほうに行かず、小気味よすぎる打撃音響かせながら殴り合うんで、爽やかな後味が残る。
だからこそひとさじのほろ苦い人間の悲しさも効いてる。

 

Mr.children 『重力と呼吸』




ハイハットとワン、ツー、という肉声のカウントに合わせて、光をぶち撒けるようなギターサウンドで本作は始まる。
鐘のような音色を折り重ねたギター、シンプルなロックビートを叩き出すドラムス、サビ全体を使って独立したメロディとして振る舞うようなベースライン…このバンドはアルバムにイントロ的なものを配して立ち上がりはゆったりとしているときが多いけれど、今回は一曲目からハイライトになっている。

『重力と呼吸』。重力と呼吸、足と心肺と言い換えてみれば分かり易いんだけど、本作のタイトルは、単純にビートって意味であろうと解釈している。
"箱庭"、"addiction"、"秋がくれた切符"あたりを除くと、全体を貫くようにひとつのシンプルなビート、ロックのためのエイトビートが鳴っていることに気づく。
単純にロックアルバムだ。
楽曲の幅ということでいうと、これまでで一番狭いんじゃないか。
ただ、逆説的に、エイトビートのロックってフォーマットはなんて豊かなものなんだろう、と感じる。
アレンジ的にもきわめてシンプルで、ギター、ベース、ドラムス、そしてヴォーカルという4つの要素がはっきりと中心にあって大きなスペースを与えられている。
そのことで、この4要素のアンサンブルという形態の研ぎ澄まされた美しさに思い至る。


"海にて、心は裸になりたがる"のパンキッシュなイントロにも意表を突かれる。シンプルなんだけど、このシンプルなことを今までやってなかった、しかもそれが痛快なほど気持ちよく鳴っている。
ちょっとゴリッと歪んだベースの音の感じとかたまらないものがある。ベースといえば最後のサビ頭のヴォーカルとユニゾンするようなダブルストップがまた良い。

"SINGLES"のコードとメロディの感じとか、こう来たか!というフックがまた異様に気持ち良いわけで、美しいメロディだけで構成されてる、それを活かすためのシンプルなビートがある。Bメロでのリズムを引っ掛ける感じはアルバム中でも"himawari"とか幾つかあって、こういうシンプルな仕掛けもサウンドがこうなってるから最大限の効果を上げてる。

"here comes my love"もやはりギター・ドラム・ベースのバランスがデカいからこそのロック的なダイナミズムが楽曲の全てと言っても過言ではなくて、こういうのってロックバンドというものの美しさだよなって思う。ギターソロのなんか笑っちゃう感じも例えばM2のノリとかと繋がってて、今回はこれがアリっていうアルバムだったんだろうな。それが本当に良かったなと思う。

"箱庭"~"addiction"はファンク調の、アルバムの中では異色の曲になっている。ちょっと『Atomic Heart』とかの昔の感じ、あるいは"こんな風にひどく蒸し暑い日"とかあの辺りの曲も思い出すんだけど、バンドのスキルの向上に伴って、グルーヴが格段に磨き上げられてる。"Addiction"のリズム体のノリ、サウンドのイカツさも含めて、これがロックバンドのアルバムなんだよってことが、この曲調だからむしろ強調されてる。

"day by day"は"靴ひも"とかのバンド全体で刻むアレンジの発展形なんだけど、合間合間に挟まるギターのフレーズのキャラクターの濃さ、それからやっぱりベースの音、本アルバム用にチューンされたエッジな響き。曲自体はめちゃくちゃポップであるということによって、そんな響きがより際立つ。

"秋がくれた切符"は『DISCOVERY』における"Simple"のような役割で配されていると思しきアコースティックナンバーで、ただ何かもうめちゃくちゃに良い曲であるということしか言いようがない。やはりこういうミドルテンポの繊細なポップソングを書かせるとこのバンドは圧倒的なところがある。

"himawari"は先行シングルだけあって、従来のミスチルのらしさを一番感じるような曲ではあるんだけど、本作以前にやっていたこの手の曲、"sign"とかに比べると各楽器のサウンドが格段にエッジー。この時からもうロック的な方向性を見ていたのが分かる。

"皮膚呼吸"、最初のトラックと同じく、アルバムの最後って今までだとやっぱりグッとトーンを変えてきて、終わりますよという感じになってたんだけど、これは珍しくアルバム全体のノリと地続きになっている。
チャイミーな美しいサウンドのギター筆頭にM1"Your Song"に立ち戻るかのようでもある。
いや、更に的が絞られているような。ギター、ベース、ドラムスのアンサンブルが発する眩いような響き。
やっぱこのアルバム、ベースが全体に素晴らしくて、2コーラス目のストリングスのようなベースライン、間奏部のベースソロ的な箇所など、サウンドがシンプルな分スキル的なところで多くの役割をカバーしてる。
そして最高のメロディ。シンプルなバンドアンサンブルと響き合って互いを際限なく高め合うような、そういうロックバンドの魔法が、何にも遠慮することの無いようにそこら中で起きている。
この曲では"出力が小さな ただただ古いだけのギターの"、"サステインは不十分で今にも消えそう"な音こそ"特別"、と歌われる。音楽の選択肢の中でも最早かつてのようなイニシアチブを失って久しい、そのギターという楽器は、なんて美しい音をさせるんだろう?というそのこと、それはロックという言葉の意味で、このアルバムが見せる景色にひとつの形を与えてもいるんじゃないか。


前に記事にしたばかりだけどアルバムなら『DISCOVERY』、あるいは曲だったら"youthful days"、"and I love you"、"Worlds End"あたりを思い出すような…つまり、生々しくてロックであるということなんだけど、そのどれよりも地面を強く踏みしめていて、そして高い地点に行っている。何かこれは軽々しく使う言葉ではないっていうのを重々承知した上で、今その言葉を使おうと思ってるんだけど、つまりこれはこのバンドの最高傑作だということ。
ひとつのバンドを25年もやって、そういうものを作るのがいかに難しいか、しかもそれを今までにやっていなかった、しかしあまりにも愚直で真っ直ぐな単純な方法で成し遂げるということ、なにかポップミュージックの奇跡が収まった箱が今目の前にあるようでくらくらする。
バンドがアルバム作るならセルフプロデュースが最善説がまた強化されてしまったなぁとかまだ言いたい事もあるけど、このアルバムを聴いてすぐに思った印象を一言でいうとこういう言葉で。別のバンドの曲名を引用するような感じになっちゃって申し訳ないけど。
光のようなロック。
光のようなロックアルバムだと思う。

 

Mr.children 『DISCOVERY』





ミスチルことMr.childrenの中で一番好きなアルバム。
生まれて初めて手に入れたCDアルバムでもある(それまでもレンタルはあったけど)。
どこかに家族旅行に行った帰りのサービスエリアの売店で親に買い与えられたという謎のシチュエーションだったので、よく覚えている。
世の中にはなんて素晴らしい音楽があるんだろうと思って、毎日毎日飽きもせず聴いた。
それからラジオを聴くようになって、カセットに吹き込んではいろいろ聴き漁った。
中学を卒業して高校に入学する間の春休みで、ベースギターを買った。ほぼ衝動買いみたいな感じだった。
地元の駅前にあった楽器屋で、ベース入門セットという、ひとしきりのものが揃ったセットがあって、3万円だった。
映画の『マトリックス』で赤のピルを飲むか青のピルを飲むか選ばされるシーンのように、赤と青のジャズベースのどちらかを選べと言われた。
赤を選んだのは、『DISCOVERY』のツアーパンフで見た写真でベースの中川が同じ色のジャズベースを使っていたから。
最初の教則本はうまく飲み込めなかったんだけど(小中学とも音楽の成績が「がんばりましょう」「1」だった自分には何が書いてあるのか分からず…というかなんでそれで楽器始めようと思ったのだろう)、当時好きなバンドのひとつだったイエモンの廣瀬が書いた教則本が抜群に分かり易くて、何とか演奏できるようになった。
その流れでイエモンのシングル集のバンドスコアをそこそこ攻略し、次に買ったのが『DISCOVERY』のバンドスコア。
全部コピーした。


改めて聴いてみると、自分の好みの根元にあるようなアルバムなのかなと思う。
単一のメロディを反復しながら、何本ものエレクトリックギターが折り重なるように進行する"DISCOVERY"から、ガコンとバンドサウンドという感じで始まっている。それは本作のマニフェストのようでもあって、全体に渡ってバンドサウンドを中心としながら、ミスチルのアルバムの中でもとりわけシンプル・タイトかつパワフルな音作りが為されている。いや、この一曲目よりもっと前、モノクロのジャケットのところからそれが始まっていると言ってもいいかもしれない。
"光の射す方へ"もまた、グシャッと潰れたギターの強烈な音色で始まる。シングル曲にも関わらず7分近い尺のあるこの曲は、ハードな冒頭からポップで推進力のあるサビ、そしてポストロック的な後半部へと展開していく。この曲に限らず曲の長いアルバムという印象なのだけど、同時に「曲が長いと感じないアルバム」でもあるのは、やっぱシンプルなアレンジとサウンドによるところが大きいのか。
"ニシエヒガシエ"の入りのドラムフィルには今でも震える。バッキバキのサウンドはライヴアルバム『1/42』では更にビルドアップされていて度肝を抜かれた。しかしこれもよく聴くとガチャガチャと騒がしい訳でなく、実はアコギが軸にあるサウンドで、例によってシンプルアレンジで構成要素それぞれのヴォリュームを大きく見せること、メリハリをつけた展開で作るダイナミクス、そんな工夫でラウドに聴かせていると分かる。
先に話に出したツアーパンフの中でもインタビューに答えて「ネガとポジ」だとか「白と黒」だとか言っていて、二面性というあり方にこだわっていたのが窺えるのだが、本作の内容もふたつに分けられると思っている。ロック寄りなサウンドの楽曲とアコースティックなものを中心にしたサウンドの楽曲。ミスチルのアルバムにしては全体の統一感が強く感じられるのって、それが大きいんじゃないかな。
柔らかなアコースティック中心のサウンドの"simple"、"I'll be"、それから二面の間を蝶番のようにつなぐ"Prism"のような楽曲においても、共通して各マテリアルの感触が生々しく、それからメロディにはブルージーなものが深く滲んでいるように思える。要するにスタンダードなポップスのように綺麗に整えられたサウンドでなくて、またカラッと明るい楽曲というのもない。
このへんの、全体の感触というものを考えると、勿論本作はギターのサウンドが主役になっているアルバムではあるんだけど、それ以上にベースの音が全体のサウンドの印象に作用しているんじゃないか。
中域をゴッソリと使って常に強い存在感があり、そんな音でフレーズ的には音符のヌキが絶妙で、ベースが鳴っている/鳴っていないという場面ごとの区分がはっきりと分かれている。この辺りの音作りはこれ以前のミスチルではあまりなくて、それがアルバム全体で貫かれているのもまたこれが特別なアルバムと感じさせる要因でもあるのかな。"アンダーシャツ"のオートワウみたいなベースが主役になっているところも少なからずあるし。
独特なトレモロの使い方筆頭に、記憶の中にあるより数倍ド派手なギターが鳴っている"#2601"を聴きながらロックとしてのミスチルというものに少し思いを巡らしてみる。
"Atomic Heart"あたりまでは丸っこく軽やかなポップバンドという感じだったのが、"深海"、"BOLERO"になるとかなりロックな音になっていたという印象を持っている。ただそのロックは厭世としてのロックというか、アイロニカルなムードが強く出たもので、対時代的ではあるけれどどこかぎこちないところも感じさせた。明るく振る舞うこと、ポップであることに対して"ただ面倒くさかっただけ"、"形だけに目を奪われてただスマートに収まってようとした"ような。それを大きく感じるのは桜井のヴォーカルスタイルで、独特の嗄れ声はこの時期大げさな程までに強調されている。ただ、シングル曲の"名もなき詩"、"Everything (It's you)"あたりは、この時のヴォーカルスタイルあってこその名曲だと思うけれど。
それで改めて戻ると、"#2601"で特に気付くのだが、アルバム全般に渡ってヴォーカルに大きな説得力がある。丸くも尖ってもない、何より曲によって作り分けていない、ナチュラルなスタイルで、しかもそれがアルバム全体をうまくカバーできている…というところで、再三「アルバム全体のまとまり」というところに思い至る。
"終わりなき旅"では7分に渡ってシンプルなエイトビートが続いていく、にも関わらず転調を繰り返していくので、コピーしていた当時にこれは覚え難くてかなり難儀した記憶がある。これをシングル曲にしたのもまた勇気あるなあという感じ、ただそれは曲のタイトル、テーマに沿った決断としてのアレンジなのだろうというのは今は理解できる。1分間のアウトロ部がなんとも贅沢な尺の使い方。
アルバム中において配置されていた各要素の間を激しく旅していくような"Image"はかなりプログレッシヴな印象を与えるけれど、美しいメロディが全体をしっかり繋いでいる。60分を超える長いアルバム(ミスチルのアルバムとしてはこれが初だったようだ)の終幕としてこれ以上ないと思えるこの曲が実はアルバム中一番短いというのもちょっと面白い。


アルバムとしてここから先の『Q』はブルージーなところを多少引き継ぎつつも本来の彼ららしい華やかでカラフルなポップサウンドに、『IT'S A WONDERFUL WORLD』はもっと明快にカラッと開放感があり、『シフクノオト』は完全にポップサイドという感じでわりと華美過剰気味のサウンドに移っている。
『I ♥ U』がわりと『DISCOVERY』と近いように思っていて、それはこの流れの中で見るとシンプルかつ生々しいサウンド、パリッと二面に(アナログ←→デジタルという形で)分かれたような内容による。
勿論それぞれに好きなところがあるけれど、でも自分にとっては『DISCOVERY』が特別なアルバムなのだと、改めて聴いてみてなお強く感じた。



しかしなぜこのアルバムについて書いているんだろう?
なんか最近長いインターバルを経て再び?ポップスが好きになるに伴って、音楽の区分とかが本当にどうでもよくなりつつあり、そのせいなのかな?
最近よくあるやつで、音楽の趣味が○○歳で固定されるとか〇〇歳から進歩しなくなるとか、そういうことを聞いたときに、普通にいいことじゃん、みたいに思うのもあるのかな。
最近といえば思うのが、ここのところ昔あったこととか思ってたことみたいなのをよく思い出すんだよ。
で、その昔のことを参照しながらこうして昔聴いてた音楽を聴いて今の感覚で発見というか気付くことが沢山あって、それが面白かったりもする。
誰かが言ってた、音楽を聴くという行為の過去を参照しながら未来に期待する性質というのも、たぶんそういうことなのだろう。
てか、さっき「今の感覚で発見」って書いたけど、これ明らかに記事終わるタイミングなんだよね。
DISCOVERYって発見って意味だから。
なんかそういう上手い感じの締めをすれば良かったな。
まあとにかくさ、ポップスが新鮮に聴こえたり普通だったら多分そこまで行けなかったような気付きがあるって、まわり道したんだとしても、いろんなもの聴いてきたの結構良かったかな、ってなんか思ったね。

Otaku Young Team オタクヤングチーム 2018年夏セッション

しました。

※オタクヤングチームは即興ロック演奏とサイゼ飲みを主たる活動とする集団です


音源 いちおう映像には入ってないパートでうs



映像 あと6コくらいあるけど続きに貼ります(プレイリストにしたんですけどそれで貼る方法が分かりません。教えて下さい)

 

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