万引き家族、30年後の同窓会、あさがおと加瀬さん、ニンジャバットマン、アローン、母という名の女

映画観てますね…。


万引き家族
30年後の同窓会
これは同じ日に観たせいもあるのか、共通して感じたことがあって。
二作品とも、会話の組み方が独特なんだよね。
映画の中の会話は、シーンごとにその会話で出さなきゃいけない情報というのがあって、概ねそこに向かっていくように設計されてると思うんだけど、それがこの二作ではとても薄い。
必要な情報の配置がわりと適当で、殊更重要じゃなさそうにスルーされてたりする。というか、会話がただの雑談に見えるという場面がかなり多い。
万引き家族なんか、狭い空間で複数の会話が交差してたりして、意識のフォーカスみたいなところにも問題が飛び火してくる。
パンフ読んでみると案の定二作の監督のやり方には共通点がある。
即興を許容して演出に広く取り入れているということ。
万引き家族の後半の取り調べシーンなんかは大部分即興らしいし。
それがある種映画的でないような独特の会話シーンのもとになっているんだろうな。
是枝監督と言えば過去作でまだ観ていなかった『歩いても、歩いても』も最近ようやく観たのだけど、これも何でもない会話の背後に潜んでいるものが映画の核になっている話だった。


あさがおと加瀬さん
ニンジャバットマン
この時はアニメづいててこういう感じで観に行ってたんだよね。
というか加瀬さんに関しては朝起きたらあっ、なんか観たい、と思いなんとなく行った感じで、ニンジャバットマンも見るつもりなかったのだけどIGNのレビューで「突き抜けてバカげた作品」などと書かれており気になって観に行く…という、どっちも計画外鑑賞で。
加瀬さん、佐藤卓哉監督のカラーがよく出ていた感じで、特にあの光に浸したような画作りは特異なものという感じが。珍しいのが監督が音響監督も兼任しているということで、映像と音響と呼応して、スローで静謐な独特の空気感を生んでいて。素朴な小品という風にも見えるけど、その実繊細で手の行き届いた作品だったかなと。邦画アニメ映画で単発でこういうものが生まれてるってなんかいいねと。
ニンジャバットマンは全く真逆なのですけど、もうハチャメチャ。
スタッフからも分かる通りというか、グレンラガン、キルラキルの際限なくエスカレートしていくノリが、超絶映像でかなり精度高く実現されてしまっている。清々しいほど中身がない、しかしビジュアルが圧倒的で楽しすぎる。ジョジョ的なケレン味溢れる止め絵、あり得ない軌道を描くカメラのコンビネーションに、日本画のテイストを注入。実験的なアートアニメ的な舵取りも勢いでこなす。
これはもう単純に目が狂喜する、見ていて楽しい、これぞ映画、これぞアニメな作品という感じですかね。あと何気にハーレイ・クイン CV:釘宮理恵という特大のホームランを決めている一作でもありそこだけでも観に行く価値がある。


アローン
これは実に分かり易く、狙撃兵が砂漠の真ん中で地雷を踏んで身動きできなくなり、立ち往生するという内容。
無線で助けを呼ぶと、52時間後には救助が到着するとか言われる。さっき激烈な砂嵐に耐えたばっかなんだぞ、アホか。もしくは、自力で脱出してもいいとも言ってくる。踏んで即座に起爆しないのは旧式の地雷で、全体の7%はもう作動しなくなっているらしい。7%。悪くない。
この映画、オープニングがあるモラルチョイスから始まるという点、舞台がはっきりと定められていない点とか見ても実に寓話的な話で、寓話と言えば昨年のダグ・リーマンの傑作『ザ・ウォール』もそんなとこがあったなとか。主人公が極限まで限定された一点から広い視野を想像する話というのはロドリゴ・コルテスの『リミット』か。
『リミット』では平面的な、地理的な広がりとしての世界を地中の狭い棺桶の中から想像するという話だったわけだけど、こちらでは時間的な、主人公の人生全体へと視野が広がっている。そのことは映画冒頭で示されていて、回想があるのだけど、ここで回想されている時間軸というのが映画を最後まで観たときにかなり驚かされる。
映画として緊張を途切れさせない為にそうしてると思うのだけど、渇きと精神の疲弊がもたらす意識の混濁が、現実の光景と心象風景をシームレスに混ぜ合わせる。これが実にいい効果をあげていて、幻想的な観たことのない映像を見せると同時に、主人公と一緒に映画の上映中途切れることの無い極限状況に置かれるようなアトラクション的な感覚をも喚起する。
『ドント・ブリーズ』ばりの静寂演出も見事なもので、観客は自身も息を潜めることによって主人公と同調する。
戦場ソリッドシチュものは面白い映画がどんどん出てくるな。


母という名の女
これは『ある終焉』のミシェル・フランコ監督の最新作。
十代で妊娠した娘が助けを求めてきて、母がやって来るのだが、この母がとんでもない人で、娘からあらゆるものを奪っていくという…なんでそんなことするの?って何度も思わされるのだが、その答えは映画の中では明示されない。
というか、この監督の映画は常にそうだ。答えがはっきりと描かれることはない。
では曖昧な演出をしているのかというとそうではなくて、むしろ明晰、あまりにも明晰すぎるがゆえに解らない、という逆接が起きている。
劇伴を用いない。カメラは固定か、必要最低限の移動を伴う長回し。ズームやアップなどの演出の意思を感じさせる動きはほぼ見せない。モノローグもフラッシュバックもない。スローモーションなど映像の加工は勿論ない。照明は基本的に自然光かその場の照明を用いる。
きわめて即物的で、ただポンと放り出された状況に対して、観客が情報を読み取ることを求める。
前作に引き続き人間の内面を主題に置いてはいるけれど、普通の映画のようにその闇に光を当てるようなことはしない。ただ闇のままカメラの前に置いてくる。今回は女性の話だからなのか、そんな解らない不気味さが前作より際立って見えた。
無演出ではあるけど、画面の中で起こる事自体は衝撃的すぎることばかりで、退屈ということは全くない。
そしてやはり車内の後部座席や歩く人間の頭の後ろから捉えたショットの不安で不穏な感触がすばらしい。
この人以外ありえない、観始めてすぐにこの監督だなと分かる、独特過ぎる映像を作るという面でも、とても面白い監督、映画だと思う。

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『ビューティフル・デイ』エンディングはどういう意味なのだろう




ツイッターネタの使い回しですみませんが自分で見てなかなか面白いですこれは
ドキュメンタリーなんか昨年はかなり観てたのに確かに今年はまだあんまりパッとしたもの無いかも とか思う


で本題なんですが…
ビューティフル・デイ、見てから日が経つにつれ好きになっていて。
それで気になっているのがあのエンディングの意味。
いろいろ考えていて、それを整理して少し書きます。なにかご意見や他の解釈あればお聞かせ下さい。
ネタバレなので続きで


レディ・バード、ビューティフル・デイ、或る終焉、ギフテッド

このところ、有楽町で映画を観るのが好きで。
もともとシャンテや角川シネマ、ヒューマントラストがあって洋邦問わずミニシアター系に強い街だったのが、最近IMAXシアター抱えた東宝まで出来て大作も…と隙がなくなった感じ。
あと有楽町ってメシ食うところが無限にあるとこがいいっすね。
安くて雰囲気的にも気を使わない感じの店が地下に無数にある。
メシということで言うと、東宝と楽天地のある錦糸町も結構面白いですけどね。
てなわけで今日は映画。


レディ・バード
これはマンブルコアを咀嚼して栄養にしたあとの青春映画かなと。
物語に大きな筋があるわけじゃなく、小さなエピソードの大量の集積でできている。で、そのエピソードも細切れになってて、あ、今のこれってさっきのあれと繋がってるんだ、みたいな形で、見ていくうちに地図が描けてくる。
カットが短くて、時間軸の跳び方や物事の途中から場面が始まるような描き方、にも関わらず混乱しない絶妙な編集。
やっぱ青春映画って思い出し視点で見ちゃうとこがあるけど、思い出せる記憶って自分もわりと散文的で要点を中心にした短いカットの形をとってるかなと思ったり。
見ながら『ターネーション』とか思い出して、そしたらこの映画の粒子の粗いローファイな映像の感じも親密さがあっていいなとか。
物語以前というか、何でもないことの尊さが沁みるね。いい映画。


ビューティフル・デイ
幼少期に受けた虐待と過去の従軍経験で心が壊れた男が、暴力・殺人ありのイリーガルな人捜しの仕事をやっている。依頼である女の子を捜すことになる、その過程を追うことが、この男の内面にも分け入っていく旅になる…という話。
『少年は残酷な弓を射る』のラムジー監督ということで、映像スパッスパッと省略/切断で見せていく映像センスとか非常にカッコよろしいのだけど、この映画に関しては何といっても音響かな。
変拍子、ポリリズム、ドローン、ノイズといったアブストラクトな音楽、それに電車の通過音や自動車のエンジン音を暴力的なエッジで捉えた環境音。これらが等価に提示され、混ざり合いどちらがどちらなのか分からなくなっていく。そのことは男の内面がスクリーン上の現実世界に溶け出していくということでもあって、つまりはモノローグもなく台詞も極端に少ないこの映画の中にあって音響が何よりも饒舌に感情を語っている。
『メッセージ』、『マザー!』辺りのヨハン・ヨハンソンのアプローチにも接近するこの方法論は、音楽を手掛けたジョニー・グリーンウッドの功績は勿論のこと、サウンドデザインのポール・デイビスという人の仕事も大きいんじゃないかな。それを表すようにエンドロールの最初の方ででっかく名前が出てくる。
あと少年残酷弓と言えば思い出すのがエズラ・ミラーのガリガリボディなのだけど、今回のこの作品もホアキン・フェニックスのたるんだボディに言葉よりも雄弁に主人公ジョーの歩んできた人生が刻まれているようだった。
暴力を発動する意思とその凄惨な結果だけが描かれるようなバイオレンス描写もドライで激カッコイイ。
『マジカル・ガール』とかあのへんにも近いものを感じる。


こっから二本は映画館でなくアマゾンビデオで観た旧作


或る終焉
ミシェル・フランコというメキシコの監督がいて、今月『母という名の女』という新作をやるんで、予習がてらに観たのが監督が以前に作ったこれ。
デヴィッドという中年男性が主人公で、終末介護の仕事をしている。というと、ヒューマンドラマかな?と思うけど、そうでもない。
というか、これ、ジャンル何だろう?って感じなのだけど。
ある種ハネケ的な、物自体というか、被写体がただそこにあって偶然カメラが回ってるみたいな撮り方をするんだよね。固定か、最低限の機械的なパンだけするカメラ、劇伴音楽もなし。それで人間の汚いこと、見たくないものもそのままカメラの前に放り出されてる。
静寂と緊張感がずっと続く。
ずっと献身的に介護していても、食後のテレビを並んで見ているときにふっと「死にたい」とか言われる。そういう仕事をしてく中で内面に澱のように闇がわだかまってっちゃうという話。
本当に静かな映画だけど、映像に異様な強度があり、退屈はまったくない。最初と最後のカットが数分間の長回しになっているのだが、これがまた凄まじい映像。
やっぱ映画って最初のカット・最後のカット・タイトルバックで100点満点中の70点は決まるよなってのを僕は思ってるんですけど。理不尽な配点だけどさ。
まあこれは凄い内容。重いけど是非見てみて下さい。


ギフテッド
これは『アメイジング・スパイダーマン』のマーク・ウェッブ監督が同シリーズを降板になってから低予算で撮った映画で。確か昨年か一昨年。
驚異的な計算能力を持った"ギフテッド"である7歳の少女と、この子を養っていて普通の人生を送ってほしいと思っている叔父の話。
まぁささやかでありふれた話だねと。
でも、これがべらぼうに良いんだよね。
その良さもきわめて単純なそれで、つまり映像がこの上なく美しい。
それは画面のデザイン、具体的には配色つまりカラーパレットの選択管理と色の配置によっている。
とにかく全てのカットが美しい。一時停止したときに、これは、っていう一枚絵になってる。そしてそのことが、作品の言わんとすることと見事に同じ方を向く。つまり、この世界は美しいという信頼。あるいは、子どもにその世界を贈るってことだから、願いかも。
役者の演技も子役から脇に至るまでことごとく素晴らしく、涙腺絞られる。
隣に住んでるおばさんと踊るシーン、病院の待合室のシーンというのが、これは是非見て欲しいんですけど、もう本当に最高のシーンで。
エンドロールの曲もスゲー良くて歌詞も本編と呼応していたりと隙がない。
ありふれた物語が映像ならではのディティールでこんなに輝いてる。繰り返しになるけどメチャクチャ良かったです。


あとは何ですかね。
先日『オトメの帝国』13巻出たけど、これ自分が唯一デジタルアナログ両方買ってるマンガで。
いや素晴らしいですね。
通常マンガって10巻を超えて良さを保ち続けるのは本当に難しくて。どうしても複雑化するキャラクター間の利害調整に終始して勢いがなくなるような事態に巻き込まれていく。
更に言えば、この作品に関してはある時点から(最近改めて読み返したところ、単行本4~5巻あたりから?)やっていることはずっと同じで。日常のありふれたやり取りの中で不意に現れる崇高ですらあるような美しい一瞬を切り取ること、これのみ。
それがこうも巻を重ねて輝きを失わないのはなぜなのか?
この巻の一話目でもうそれははっきり描き込まれてるわけですよ。メインキャラクターたちが入り乱れて顔を合わせるこのエピソード。
ストレスや摩擦がないこと、それすら超えて、もうこの作品は美しいことしか描かないと決めたんだろうなって。この世界は素晴らしいし君は美しい、それでいい。そういう決意表面ですよね、これは。
その一番軽薄に見えて実際には恐るべきことが、しかしポップに描かれている。控えめに言って奇跡。
「タクラマカンはウイグル自治区にある砂漠だよ」。
いや凄いね。参ってしまいました。

アイ、トーニャ、君の名前で僕を呼んで、モリ―ズ・ゲーム、孤狼の血、フロリダ・プロジェクト

本日の昼食にと購入したシーザーサラダに入っていたのがクルトンでなく「焼いてもない普通のパンを小さなダイス状にカットしたもの」だったので少し気落ちしています。
先月末あたりから観たい映画がドッと公開されてきていて、これがまたどれも面白い。その話を。


アイ、トーニャ 史上最大のスキャンダル
当たり続きのアスリート/スポーツ絡みの実話もの。
アメリカ女子フィギュアスケート史上初めてのトリプルアクセルをキメたトーニャ・ハーディングの物語。
DQNプリンセスとでも呼びたい(まぁ本人はこの若さで自身のプロダクションも運営してたり知性派なのだが)独特のキャラクターを確立しているマーゴット・ロビーが演じている。
てか初めて知ったのだが、世界で初めてトリプルアクセルをやった選手って日本人なのですね。スポーツに疎いもので全然知らず。
で、このトーニャの話。
これがムチャクチャ面白い。いや、ムチャクチャすぎて面白い。
フィギュアって華美をきわめた世界のように思えるけど、この人は貧乏な田舎娘で、ただ子供の頃から圧倒的な才能がある。
その一方で立ち振る舞いとか言動で審査する側からの心証がめちゃくちゃ悪いと。
まずね、フィギュアの選手ってリンク外での待機時間に毛皮のコートを着たりしてるけど、あれがカネなくて買えないんで、自作するってエピソードが出てくる。
家の近所の森に狩りに行って、自分でサバいたウサギの皮使ってコートを作るというアマゾネスぶり。演技のときの衣装もずっと自作。
他にも、学がなくてクラシックを全然知らないんで、ハードロックのZZトップを自由曲にして踊るとかね。
言葉遣いも凄くて、とにかくもうこんなにFワードを乱射する映画ってそうそう無いよという感じ。F五段活用かよという勢い。
で、まあサブタイトルの通り、ある事件をきっかけにこの人はアメリカアスリート界最大のヒールへと転じていくわけなのだが…。
「アメリカって国は、大切な仲間と憎むべき敵を必要としてるの」。
それがあたしよ。
ただ、この言葉の裏側にあったものが透けてくるから人間の悲しさの話にもなっている。
暴力母と暴力夫の間で、何を願っていたか?っていう。
でもそれだけじゃない。
クライマックスに待つ展開はただ突拍子もないとしか言い様がないのだが、だから実話って凄いんだよね。
こんなんムチャクチャでしょ、って言われても、いや、これが事実ですから、って話だからさ。そこに至って話の印象も人間の強さというところに転じてくる。
ブラックで破天荒、キレッキレの編集と第四の壁もぶっ叩くような演出の妙味でグルーヴする何ともロックな映画。


君の名前で僕を呼んで
この映画、観るのに結構苦労して。
最初は朝イチの回で映画館に行くと予約で満席。
観られた回も満席で。パンフも売切れてて、公開館数が突然拡大したりもしていて、想定外のヒットだったのかなというのを感じさせる。
観てみると、とても普遍的な青春映画というか。もうクラシックな手法を丁寧に洗い直してるなという感じ。
『リズと青い鳥』にしろ、これにしろ、そういう特別視ということじゃなくて、普遍的な話として語ろうっていう優しい目線が良いよね。
で、途中に出てくるユダヤの星のエピソード辺りからも察せられるけど、このタイトルの意味。
きみは美しい、っていう事に対して、こう応答することの意味はシンプルで。
きみはきみを見くびらないで。貶めないで。
サンボマスターの"ビューティフル"って曲は"君が安らかに夜を過ごすそんな日が来たなら / それこそ願いが 僕の願いがかなう日なのさ"と始まって、"いったい誰が何のために / 君のこと苦しめるこんな時代を作ったの"と嘆きながらも、僕は必ず君のもとに駆けつけるから、と言って、こう続ける。"だからもう信じておくれ/君が美しいってこと"。
それだよね。この言葉の意味は。
終盤のお父さんが主人公に向けて語り掛ける内容も素晴らしくて。感情を祝福しようっていう。
ラストはとても印象的な長回しで終わる。これがまた良い。


モリ―ズ・ゲーム
こちらもアスリート実話ものの亜種と言えるのかな。
オリンピックに王手を賭けたモーグル選手が事故で滑れなくなるのだが、それをきっかけにこの人は別方向のとんでもない才覚を顕していく。
なんとポーカーの裏賭場のオーナーとして超金持ちのセレブ相手に勝負しながらのし上がっていくという話。
早いテンポで凄まじい情報量を流し込んでくる語り口(主人公のモリー・ブルームは全編に渡って早口でナレーションを喋り続ける)、モリーの弁護士を演じるイドリス・エルバや父親のケビン・コスナーといった脇を支える名優の演技にも圧倒されるのだが、何と言ってもモリーその人を演じるジェシカ・チャスティン。
美術館とか世界遺産とか、美しいものにお金を払うのなら、この人を二時間スクリーンで鑑賞させて頂く為に今1800円払うというのはちょっと安すぎるようにすら思う。
作中で言い寄ってくる男を片っ端から振っていくのだが、そのときにこう言う。
キルケーって知ってる?
酒と蜜で男を騙して豚に変える女神のことだよ、と。


孤狼の血
ある意味4DX感を味わえるのでは?と思い歌舞伎町の劇場に行ったのだが、当局の介入があったのか(?)まさかの公開なし。仕方なく近い新宿バルト9で鑑賞。
前々作『彼女がその名を知らない鳥たち』は素晴らしかったものの前作『サニー/32』は(多作過ぎなこともあるし)少し休んだほうがいいんじゃないかな…思わせる出来になってしまっていた白石和彌監督、本作ではやってくれた。
映像が入る前の音の導入がまず、豚小屋にひしめく豚の鳴き声。むせ返るような空気すら伝える生々しいその音に先導されて入って来る異常なバイオレンスシーンにのっけから圧倒される。
あえてガサついた質感に仕上げた映像の切れ味も鋭い。
邦画の強みである役者の力を十二分に使って、各アクトが素晴らしい演技を見せている。
大好きな『渇き。』の昭和おじさん直系のブチギレモードの役所さんは勿論最高。
松坂桃李の凄さは本作で初めて気づいた。最初と最後で顔つきも歩き方も目も全く変わる。この人の、リズと青い鳥ならぬサツの青い犬が豚の糞の中這い回りながら黒い狼に変わるようなシーンは本作の白眉とも言うべき箇所。
でもこの映画は何と言っても言葉。やっぱり。胸に打ち込まれて熱くなるような血の通った本物の美しい日本語。虹色の罵詈雑言。この映画の脚本を国語の教科書に載せて欲しい。ここまで会話が気持ちいいと思った邦画は久々。
ナレーションまでいくと演出はやり過ぎの感もあるのだが、とにかく今年スクリーンで観ている邦画の中ではぶっちぎりに気炎を吐いている映画のように思う。
トレーニング・デイでもありセッションでもある。
R15だけど15歳になったみんなにまずこれを観てほしいと思う。
こういう、映画館を出た次の一歩目から歩き方も変わるような映画がいいよ。


フロリダ・プロジェクト
フロリダのディズニーワールドの外周に広がっている地域が舞台になっている。
そこは夢の残滓が漏れ出すようにしてド派手なパステルカラーの店やモーテルが立ち並んでいるのだが、そのモーテル群には、サブプライムのあおりを受けて家を失った最底辺の人々があえぐようにして暮らしている。
そんな夢の国と現実の荒野の重ね合わせになった上で生きる母娘の話。
6歳の娘の方の目線が主になっていて、彼女を追うカメラの目線は低く眼差しは優しい。映画のトーンは基本的にポップでファンタジックな色合いだけど、それだけに時折覗く容赦ない現実が苦しい。それでも母親やモーテルの支配人は子供に楽しい世界を見せようと四苦八苦していて、それが観ているこちらには伝わってくる。終盤、そんな母親の側に視点がうつるシーンがある。この人が見ていたのはこれだけだった、という、意外なでも当たり前なそのことに胸を突かれる。
そしてラスト。
このラストはゲリラ撮影になっているのだが、それだけに本物の奇跡が起きている。二重の意味で夢と現実が重なるような、抱きしめながら打ちのめすような。その地点でこそ…最も美しく映画的なその場面でこそ…映画と現実の境界が越境されているということもまた驚異的だ。
このラストシーンとそこに至る流れにはただ圧倒される。
幾ら言葉を重ねてもその時に感じたことの芯を捉えられている気がしないのだけど、だから映画って映画なんだろうな。

リズと青い鳥、オー・ルーシー!、ロープ 戦場の生命線、ガール・ライク・ハー、サバイバルファミリー、グッドモーニングショー、グッド・タイム

相変わらずゴッドオブウォーやってたのですが、これは実質クラナドアフターでは?という説を強行に主張しています。
・ゲームが進行するとタイトル画面が変わってそのうち木の根元で子供が寝始める
・そもそも嫁さんが亡くなって心を閉ざしてる感じの父親と子どものロードムービー的な話だ
・父親がとてもツンデレだ
・(坂じゃなくて山だけど)登ることがひとつの大きなモチーフだ
・うりぼうが登場
と、挙げればキリがない類似点。
もうこんなんなんで、強敵が登場した時はあんパンっ…。って言いながら頑張っています。

あと何かと言えばフレームアームズガール作ってたのですが、これが新川洋司氏デザインということを知って驚き。
まぁそれはおいといて映画は観てました、ハイ


リズと青い鳥
山田尚子監督・牛尾憲輔音楽の最新作ということで。
過去二度ほど書いた通りで、この人達の作った『聲の形』は、アンビエントドローン/ノイズが劇伴の役割を越えて演出の核にまで立ち入っているという意味で、青春ドラマ版の『メッセージ』だという風に考えているんだけど。
そういう前提で見ると、全編コンセプチュアルな音響で構成されていた『聲の形』とは違って、もっと場面に即したような音楽遣いになってはいる。
ただそれでも独特の音楽演出が各所で冴え渡る。
とりわけ印象深いのは(「絵本パート」「現実パート」と分けたときの)現実パート冒頭。
例によって内部奏法や機構ノイズを用いたプリペアドピアノ風のカットアップが耳を引く。それが三拍子のメロディにスッとシフトするのだけど、そのことが主人公・みぞれのとりとめない思考が一点に…これ以上ないという一点に…一瞬で収束するのを音で聴かせている。
要するに、モノローグの代わりに、いわば内面を代弁するものとしてサウンドが、それもアブストラクトなサウンドが用いられている、しかもこれは全編に渡る。萌えアニメ的な文法で読解しようとすると、モノローグがきれいに排除されているというのは相当な異常事態だ。
続いてのパート。みぞれと希美が校内を歩いていくが、ふたつの足音と三拍子のリズムは奇妙にばらけたポリリズムとなって、全体でどこかしっくりこない音像を結んでいる。で、映画終盤、再度三拍子のメロディが使われる場面があるけど、ここでやっとその意図が分かる。
詳しくは書かないが、奇数拍子と2人の足音では、どうしてもリズムはちぐはぐになってしまうのだ、結局。それは映画そのもののテーマとすら言えるかもしれない。だってその不格好な音楽は…もう鳴り止んだ音楽は、それはそれできっと美しかったのだ。


オー・ルーシー!
孤独に空気のように生きているアラフォーOLがひょんな事から英会話教室の体験クラスに参加することになり、そこで米国人のイケメン講師に一目惚れする。が、講師は帰国してしまい……と来れば、することはひとつでしょう!ってな話。
ああ、そういう感じですか、と思って観に行くと、最初のシーンでわりと度肝抜かれる。
米国在住の日本人監督の初長編とのことだけど、アダム・マッケイがプロデュースに入ったり、ガッツリと日米合作。そのせいか、ロードムービー的なところもちゃんと空の広い感じで見せており、映画的に豊かな画に溢れた作品になっている。
そして何よりオレ、この手の周回遅れで最後の青春、死に物狂いで全力疾走、的な話に弱いのですよね。
この主人公がイタかったりサムかったりする程泣けるというか。
ジョシュ・ハートネットという意外さ、安定の役所さんというキャスティングの絶妙さも相俟って最後まで楽しく見れた。
ビターだけどそれだけじゃない、余韻の残る後味。
これは意外な拾い物でした、おすすめ。


ロープ 戦場の生命線
原題がパーフェクト・デイ、これだけで何かもう、良いなって感じですけど。
95年、停戦直後のバルカン半島で、難民のために清潔な水を確保する仕事をしているNGOの"パーフェクト・デイ"、最悪な二日間を描く。
映画の公式サイトに"ただ一本のロープがあればこの世界はもう少しハッピーになるのに"とある。まさにこれ。
井戸に投げ込まれ水を汚染する死体を引き上げるために一本のロープが必要になり、それを求めて奔走するという話。とにかくこのロープが手に入らない。銃弾も地雷もロケット砲もそこら中に余る程あるのに、どうして人助けの為のロープ一本がどこにもない?
紛争の空虚さ、人間の醜さ、これでもかと見せつけられるが、重いトーンの話にはなっていない。ロックンロールと乾いたユーモアで話は転がっていく。
べネチオ・デル・トロとティム・ロビンスの、諦めの向こうにまだ何かを信じようとするような瞳が印象的だ。
クライマックスに起こる、笑ってしまうような何でもない奇跡の美しさ。


ガール・ライク・ハー
これはネトフリで。
公立校で唯一全米の優良校十選に入った高校に、ドキュメンタリー制作チームが取材に行く。すると、一人の女子生徒が睡眠薬飲んで自殺未遂、今も意識が戻ってないと聞かされる。いじめがあったらしい、とも。チームは取材対象をそっちに切り替える。
最初は状況がイマイチ判らずヤキモキするのだが、彼女の親友の男の子に話を聞いたら「起こった事を全部記録しとくべきだと言って、彼女に持たせてた」とブローチ型の隠しカメラを渡される。…というわけで、いじめ被害者の一人称映像を見ることになる、フェイクドキュメンタリー。
『プロジェクトX』とか『クロニクル』とかさ、あとガス・ヴァンン・サントの『エレファント』とかも一部それに近い様な見せ方をするけど、POV、ファウンドフッテージ形式って意外にも青春映画にも効果を発揮するということですよね。
で、この映画はもう、撮っていることが全てなんだけど。
こういうことだよな、としか。見るべき作品っていう言い方があるとすれば多分こういう作品で。
終盤はただ号泣してしまった。


サバイバルファミリー、グッドモーニングショー
ネトフリで。
このふたつの映画は自分の中で共通点があって、何かというと予告があまりにも酷過ぎ劇場で観逃してしまったこと。
人の所為にしてんじゃねーよって感じだけど、ホントあのバラエティ番組みたいな予告やめて欲しいんですよ。ちゃんとした映画なら。
まあそんな愚痴を言っててもしゃあないので、しょうもない予告だけど本編はちゃんとした映画ってのを予告見た時点で察するスキルを磨いて行きたいと思います。
で、サバイバルファミリー。
電池も含め電気がある日全部使えなくなり、このまま東京に居ても詰むっぽいなぁ…と思った家族が、母の実家のある鹿児島を目指す。
コメディっぽく見せかけて結構真面目に怖い話。水道も死ぬんで水買いに行ったら、ペットボトル一本2000円で売っている。同じマンションに住んでいた高齢者が真っ先に亡くなる。交通機関、物流が死ねば、店から商品が消え通りにはゴミが積み上がる。
まぁそういう怖い描写は沢山あってどれもジワジワ来るような描写が素晴らしいのだけど、他に好きな箇所として一点挙げたいとこがあって。久し振りにまともなメシにありつけた人が食いながらボロボロ泣く、みたいな災害・遭難ものの定番シーン、これがこの映画にもあるのだけど、本当に良く描けている。自分はこの描写大好きで、これがよく描けてたらそれだけで映画の成績一段階上げちゃう。
続いてグッドモーニングショー。
朝のワイドショーの看板キャスターが主役で、この人が出てる番組の放送中に、銃を持った男がカフェに立てこもるという事件が起きる。当然臨時で番組で扱うことになるのだが、そこで犯人からカメラ越しに主人公にお呼びがかかる。テレビで流させてやるからお前と話させろと。
これ見ていて思ったのはさ、ワイドショーという、ともすれば揶揄され馬鹿にされるような仕事にも、本気で取り組むプロフェッショナルの人たちがいるわけよ。そういう人たちの実際の逡巡や葛藤を見ずに、低俗だのマスゴミ(本当に下劣な言葉ですけど)だのと宣う事って、どうなんだろう?という。
映画自体はそこをどうだオラと押しつけがましい話にしてなくて、むしろひとつ答えの出ない問いを残すことで、腹に残る余韻を持った物語に仕上げている。
メンヘラ女性が余分という以外はとても良い作品。テレビ屋の執念みたいなものを感じた。


グッド・タイム
これは単純にメチャクチャオモロいっす。
兄弟で強盗して逃げる途中に弟だけが捕まる。兄が何とか弟を助けようとNYの最下層を駆けずり回る。駆けずり回る、が、場当たり的にヘタを打ちまくり、どんどん脱線していく。ブレーキのない車で飲酒運転しているような話。
OPNの手掛ける音楽が映画に実にマッチしていて、ヒリヒリするような疾走感を生んでいる。
映像的にも素晴らしくて、何かというと、一切の加工をしてないんだよね。モノローグもなければスローモーションもない。カットは長いし繋ぎ方も乱暴、挙句ゲリラ撮影。このパンキッシュな感触がトチ狂ったエネルギーとして渦巻いてる感じ。
同監督の『神様なんてくそ喰らえ』は正直よく分からない感じだった(音楽はスゲーセンスいいなと思ったけど)のだが、これはメチャクチャ良かった。


今日はこんな感じですか。
あとは折角作ったんでフレームアームズガールの写真でも見てって下さい。
なんか今までと違う仕上がりにしてみたいと思い頑張ったのですがちゃんと汚れた感じの塗装になっていますかね。

FAG1.jpg
FAG2.jpg
FAG3.jpg
FAG4.jpg
はいありがとうございます
確かにこうして見ると足首~足首あたりにメタルギア感がちょっとある気がする
 

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