Bill Orcutt 『Bill Orcutt』

今日は『パターソン』という映画を観た。
ジャームッシュの最新作。この人の映画を僕は結構好きなのだけど、なかなか不思議な人だと思っていて、アート的と言われるにしてはとてもポップだし、メジャーと言われるにしてはニッチな作風。ベテラン映画監督だけどパンクス。毎回まるで違うものを作ってくるのに、観終わってみればジャームッシュでしかあり得ないと思わせる。


物語の舞台は実在の町、ニュージャージーのパターソンで、この町でバス運転手をやっている主人公の男は名前をパターソンという。
なんとも妙な設定だけどそんなところは他にもあって、例えば映画冒頭の朝のシーンでパターソンの奥さんが「わたしたちに双子の子供がいる夢を見た」なんて言うのだが、それからバスの乗客として、あるいは町中で、パターソンはとにかく双子をよく見かける。
で、面白いのは、この映画ではそのことには何の意味もないというところだ。なにかそういう奇妙な状況に陥ったのは何故なのか?というサスペンス/ミステリーにでもなりそうなものだけど、そんなことは全くない。
というか、言ってしまうと、この映画はまさに"なにも起こらない"映画だ。その「なにも起こらない」ということの内実の豊かさを描いた映画、と言ってもいいかもしれない。

映画は綺麗に7分割されており、月曜から日曜までパターソンの一週間をほとんど均等に描いていく。
パターソンの日常は概ねパターン化されている。だいたい同じ時間に起きて、朝食を食べて職場に向かい、昼になれば町のシンボルの滝の見えるベンチで昼食を取りながらノートに詩などを書きつけて、妻と夕食を食べると犬の散歩に行き、バーに立ち寄ってビールを一杯だけ飲み、眠りに就く。
驚くのは、映画はこのプロセスを、等しく順繰りに毎日捉えていくということだ。
ところが、それによって…同じく捉えることによって、同じことの、まったく異なる側面が浮かび上がってくる。

バスを運転していると前の方に座る乗客の会話が聴こえるが、そこに座る人間も、会話も、毎日違うものだ。バーでは夜をつなぎ合わせるように、バラバラのようでいて実は前の夜の続きというような人々のやり取りに遭遇する。家に帰れば、とにかくいつも新しいことをしていたい妻が、ある時は部屋の壁をペンキで塗っており、ある時は奇抜な具材のパイを焼いており、ある時はギターを弾いている。
そんなことがそこかしこに存在している。
毎日同じように生きて、毎日違うものに遭遇する。
パターソンはそれを詩にして書き留めておく。
もちろんそれぞれの差異は、「映画」「物語」として捉えたら「何も起きてない」の範疇なのだけど、その「何も起きてない」ということにはほとんど無限の有り様があって、子細に観察してみれば、うたになるほど豊かだ。


ディティール。
ディティールということについて考える。
自分の好きなホラー映画とか、日常系(思えばこの言葉ほどこの映画に似合うものもない)な萌えアニメとかさ、あらすじレベルに…人にこういう話って説明するようなレベルに…単純化すると、全部同じ話じゃんってのが多々あるわけ。
ただジャンルにおけるこの手のものを味わう方法ってそれではないわけよ。
それは日常系ってことで言うなら、一見同じ、他愛もない、どこかで聴いた話の細部が…道端に咲いた花の品種とか、いつものメンバーでの意味のない会話の話題とか、日々に紛れこむちょっとした失敗とか、家に帰る道、いつもと一本外れた通りに入ってみるようなこと、そういう細部こそが、むしろ本質なわけ。
おそらくそのレベルで同じものを描いている作品というのは余りないし、この手の作品の作り手はそここそが肝要だと分かってもいるだろうし、その微妙な差異を楽しむという視座において、外野席からは同じにしか見えない物ものが、固有の豊かなそれぞれとして立ち上がってくる。
というか、あらゆるものはそうなのではないだろうか?
自分の好きなノイズミュージックとかドローンとかさ、多分興味ない人からしたらみんな同じに聴こえるんだろうなってのは分かるし。
逆に自分からしたら車って世界に50種類位しかあるように見えないし、せいぜい色が違うだけだろみたいな、あるいは野球やサッカーの選手も全員同じことしてるようにしか見えないわけよ。
好き、愛情を持っているということは、その間の微妙な差異を豊かなものとして楽しめるっていう意味なわけ。
それをパターソンになぞらえて言うのであれば、他人からしたら何もない、毎日変わらない他愛のない日々を、そういう区切りの繰り返す連続体としての人生、世界なるものを、愛情をもって生きてみれば、そこには同じことの毎日の微妙な差異、つまり愛すべき=そこにその瞬間にしかない・かけがえのないものとしての・性質が立ち上がってくるのかもしれない、ということ。


音楽はこれを強く思わせるものがある。
我々はなぜ同じ曲を幾度も…それどころか自分の手で…演奏したがるのだろう。
すでに熟達した演奏者の、優れた演奏が残っているんだから、もうその曲の演奏が世界に新しく生まれる必要はないんじゃないのか。
この問いが的外れで馬鹿げていることはもう直ちに分かるはずだ。ここまで書いてきた通りで、更に突き詰めていうなら、音楽が「良い」「悪い」ということと、演奏が「うまい」だとか「へた」だとかいう事は何も関連性がないということになる。
僕はよく、音楽はそこに含まれているノイズのほうが本質、みたいな言い方をしてしまうのだけれど、それはこのことだ。
楽譜の通りに置かれている音なんてのはどうでも良くて、その合間をつなぐ音の震えやかすれ、譜面に現せないジリジリという空気の音、アンプに挟まったノイズ、外れた音、ずれた音。意図せずに…しばしば間違いと言われる…そこに現れている音こそがその音楽の固有性、かけがえのなさを担保する。それは再現不可能だ。
Bill Orcutt ビル・オーカットの2017年作セルフタイトル、『Bill Orcutt』は、このギタリストがカバー集をやっている、というゆえに、音楽のそんな性質が究極的に表現されている。
ここで聴かれる演奏たちは、確かにそれぞれの曲であることには間違いないのだが、それと同時に"この演奏でしかありえない"、固有の、"ここで録音されたこのテイク以外には存在しないし、二度とやってこない"、唯一のものとして響いている。
それはオーカットが…いや、ここでもう一度こう言っておこうか…オーカットだけが辿り着いた地点だ。
だからこのアルバムのタイトルは『Bill Orcutt』なのだろう。
"When You Wish Upon A Star"、"Over The Rainbow"、"Star Spangled Banner"…。
そこら中にある曲たちのここにしかない演奏たち。
本物の傑作。


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Bill Orcutt









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Demdike Stare 『Wonderland』

ネオン・デーモン観て来ました…




というところで入る今年の感想初めなんですけども…。


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あの…今までなんか言えなかったんですけど…
デムダイク、ずっと前から好きでした。(告白実行委員会)
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ライナスレコード屋さんにはまだ初回盤があるしちょっとお得な値段で買えるしなんとなく中の人の人格も素敵な人なのでぜひ
16年12月のリリースなのだけどまだ年明けたばかりなのでしばらくはまだ去年かそれ以前のリリースで書いていこうと思います


詳しい人に言ったら怒られるかもしれないけど、テクノというのはパーツとパーツの組み合わせの音楽だと思っている。
冷徹に厳密に足し算の結果が出力される音楽だと思っている。
パーツの組み合わせということは、フェチズムの音楽だと思っている。
たしか東浩紀だって本でそんなことを書いていた。このシンセのトーン一発で泣ける、みたいな。

これまた後ろ向きな話なのだけど、テクノを聴くとき、どうしても評価が減点から始まってしまう。
要するに、どうもこれは受け容れがたいというパーツが決まっていて、それが楽曲の中に鎮座していないか?というところを見てしまう。
例えば僕の好きなテクノアルバムというのは…Pete Swanson ピート・スワンソンの『Punk Authority』…でもほとんどノイズなんだよなこれは…、Thomas Brinkmann トーマス・ブリンクマンの『What You Hear (Is What You Hear)』、Ron Morelli ロン・モレッリの『A Gathering Together』(これは正確にはロウハウスという音楽らしいけど、正直そこまで区分して聴いていない)などなど…。
これらのアルバムには勿論それぞれとても好きな部分があるんだけど、それ以上に初めて聴くときに(あっ、これは嫌いなものが入ってないな)という、カレーやシチューを腑分ける子どものようなことを思ったのを覚えている。
自分がこの英国マンチェスターの二人組、Demdike Stare デムダイク・ステアの音楽を好きなのは、やっぱり嫌いな野菜の入っていないカレーだったというのが最初だった気がする。モダン・ラヴといういかにもドレスコードの厳しそうなレストランから、本来出てくるはずのないゲテモノだった。

デムダイクの音楽は、いわゆる躍らせないテクノの最新モデル、グズグズのノイズドローンをベースに、キックを飽和寸前まで落とし、打楽器全般の波形をザクザクにぶっ叩いて歪ませ、ハイファイな要素を注意深く排し、耳から脳髄にじわじわと浸透するような内向きのベクトルを持った音楽だった。
上で書いたような僕の苦手なパーツっていうのは、例えばキラキラと高揚感のあるシンセ、上から下まで綺麗に出ているシャープでクリアなトーン、歯切れよく細かなビートを刻むパーカッション、曲を支配するメロウなヴォーカル、安直なホラー映画風のムード、など……。
そらもう大体聴けんやろ、アホちゃう、と言われるとまあその通りで、もうほんとに好きなやつに出会えるのは貴重なのだけど。

そこからいくと今回のアルバム、最初、あれっ?と思ったのだよね。
結構ビート中心の歯切れのよい音作りになっている。
ブリンクマンっぽいミシンのビートが刻む一曲目"Curzon"を過ぎると、ベタベタなヒップホップのサンプリングが入ってくる"Animal Style"、キャッチ-なヴォイスサンプルの"Fulledge"など…。
でも嫌な感じがしない。
なぜだろうと考えながら聴いていると、このアルバムの中の楽曲は基本的に否定の運動によって推進力を得ていると気付く。
ヒップホップのサンプリングは瞬く間にバラバラに切り刻まれ、奇形的なビートへと姿を変えていくし、ヴォイス・サンプルもエフェクトとチョップでノイズの構成要素に落ちていく。
レイヤーを重ねていくのでなくて、直前の形態を解体しながら次の姿を得ていく、という、運動。
それで楽曲がどれもデムダイク印のダークでモノクロームなムードに染まっていて、その音はやはり脳髄に向かって浸みこんでくるようなディープさ、サイケデリックさがある。
テクノって覚醒感の音楽でもあると思っていて、沈みながら覚醒する、その矛盾を抱えているものがやっぱり自分の好きなものということになるのだが、そのシニカルな手法でもって、このアルバムもそれに成功している気がする。
反転したワンダーランド(このアルバムタイトルは本当に最高だと思う)として…今日冒頭にネオン・デーモンについて書いたけど、ネオン・デーモンが白黒フィルムで上映されているとしたら、そこでかかっているのはこんな音楽だろう。


で、最後にちょっと書いとくと、初回盤はオマケの二枚がついた三枚組になっている。
『Test Pressing』という、前作アルバムから今作までの間にリリースされた"フロア向け"(中身聴くとどこが?感もあるが)12インチシングルシリーズの全作、1~7までの内容を収めている。
それはまさにデムダイク印といったサウンドから様々なビートの形態を試しながら、今作へと向かっていく道のりなのだが、どれも明確に性格付けされたエッジーな音であり、別々の方向を向いていて、しかし彼ららしい暗黒のムードを常にまとって重く沈む、モノクロームのグラデーションの豊かさを見せるような作品になっている。
どれもメチャクチャカッコいいが、一曲聴かすならコレよ。
Past Majesty



 

サンボマスター

『エブリバディ・ウォンツ・サム!!』という映画を観たんだけど、これに限らず、リンクレイターという監督は時間をどう扱うかというところに特徴があって。
一晩一緒に歩きながら交わされるとりとめのない会話に男女の関係の様々なフェーズを凝縮して見せたサンセットシリーズであり、12年間の物語を実際に12年使って撮影した6才ボクであり…。
今回もそういった形で、この人が青春映画を撮ったらどうなるかというと…大学野球部の話なのだけど、寮に入ってから大学の授業が始まるまでの空白の3日間、で、最初の授業が始まった瞬間に映画が終了するという。そこに大学生活を凝縮するのかという。
そして全体としては何もない平凡な物語の中に、バラバラの輝く破片のようなエピソード。バカ明るいが切なくもあるうたかたの夢の日々。「今を楽しめ。長くは続かないから」、「人生の終わりに後悔するのは、やらかしたことじゃなくてやり残したこと」。
主人公が毎晩パーティーに繰り出すのだが、カントリー酒場であったりクラブであったりパンクのライブであったり、毎日違うジャンルってのが何かとても良かったな。

あと『この世界の片隅に』。
なんか『君の名は。』がCGギラッギラのピカピカに磨き上げたようなシャープで高解像度な映像だったり『聲の形』がアニメ的にありがちな画づくり徹底的に避けて異様に凝りまくったレイアウトや映画的な隠喩の絵を多用してたりってのを思い出して、それに比べるとこの映画は神作画とか目を見張るような演出とかはないんだよね。
むしろぎこちなかったりもどかしかったりするんだけど、その代わりにアニメのアニメたる、アニメート=命を吹き込むような脈動する生命感が満ちているなと。吹かれた花の種子が散る前にちょっとしぼんでふわあっと広がったりとか、そういう呼吸が気持ちいい。
あとは終始喋ってるのんの演技がすごくて、やっぱ映画はある面役者のものであるなあとか、最初でかかる曲、これはずるいなあ、とか色々思って…劇伴に合わせて演奏するように料理するシーンも良かったなあ。一番好きなのは遊郭のシーンかな。
質素ではあるけど、ああアニメだな、アニメの良さだな、っていう映画だったなあと。


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最初の三枚は実家にある


10年くらい前にサンボマスターのライブを見に行ったとき、あれは3枚目が出た時だから勿論ワンマンでもうかなり人気があったように思うけど、会場に入って驚いた。ステージの上は真っ白であり、アンプとドラムセットとマイクスタンドくらいしか置いてない。
ライブはそのまま始まり、かなりの長丁場のステージだったように思うけど、その間、舞台の上にはバンドと音楽だけだった。

サンボマスターの音楽の中で最も好きな瞬間は、例えば次のような箇所だ。4カウントのハイハットと単一のコードを刻むだけのギターに被せてギター・ヴォーカル山口が喋り始める、僕が今から歌う歌は、"21世紀少年少女"っていう歌なんです、深く息を吸ってだしぬけに絶叫する、アイラブユー、ベイビ、ベイベー、もう一度絶叫するアイラブユー、ベーベ、ベーベ、ベイビベイビベイベー。
サンボマスターにおいてアイラブユーという言葉は叫ばれる。何度も絶叫される。

サンボマスターは何度も同じフレーズやモチーフ、言いまわしを使う。たぶん言いたいことはそんなに多くはない。ただその少ないことを何度も何度も言いたいのだろうという気がする。好きなのは次のようなフレーズ。

"かける言葉なくすほど君が美しいから 何にもコワくなくなったよ"

"誰もが目をそむけて キミのことさびしさでいっぱいにしたろ?
誰にもこれ以上 そんな事はさせないから 僕に少しだけ笑ってくれよ"

"いつかは死ぬと決まっても あなたの事忘れられないの"

その叫びたいことっていうのはやっぱりアイラブユーということであって、しかもそれは疑いなくこの世で一番強いものとなって、死の虚無をすら打ち負かす。

サンボマスターの演奏が好きだ。
特に『きみのためにつよくなりたい』というアルバムが好きで、このアルバムはセルフプロデュースで学生の頃から使っていたスタジオに機材を持ち込み、マイクスタンドから自分たちで立て、演奏はほぼワンテイクで収録、全体のオケを2日で録り終えたとの事。
それで充分というか、それが最高の形と思える。直してなくて足してなくて無駄なものがない。
ドラムがすごく良い。目いっぱい詰め込んだようなバタバタした演奏はカッコよくはないけど好きな演奏スタイルだ。
ベースの余分な弦まで掻いてしまうような腕ずくの演奏が好きだ。
粗暴さの合間に甘いトーンでソロにおいてはジャズ的でありでも最終的には感情に任せてしまうギターが好きだ。
声が好きだ。
"Oh ベイビー"という曲の二番頭のところで、ギターの弦がビリビリとビビって擦れるノイズがしっかり入っている。そういうところが好きだ。
"二人ぼっちの世界"でのひび割れて歪んで潰れてノイズまみれの音が好きだ。"絶望と欲望と男の子と女の子"のベースがでかすぎてモワモワと閉塞したまま爆発するような音が好きだ。

サンボマスターのゴリゴリの音の合間からどうしても溢れ出す甘すぎるメロディが好きだ。

サンボマスターの音楽はたまにソウルであったりヒップホップであったり打ち込みロックであったりするのだが、そういう時いつもどこかうまく出来てなくて、それをめちゃくちゃ演奏したりひたすら叫ぶことによって何とか埋めようとするようなところが好きだ。
演奏のポテンシャルは高いのに別のかたちに合わせることはうまくない。でもサンボマスターのやり方で演奏されていることに比べたらそれはあまり重要なことじゃない。
そしていつも結局ほとんどは笑ってしまうくらい愚直なギターロックなのだ。

サンボマスターは律儀にもアルバムに馴染むようシングル曲をリアレンジして収録する、そのアレンジが好きだ。
たいていの場合、シングルヴァージョンの時点であった余分な装飾が落とされてシンプルなサウンドになっている。
そっちのほうが何倍も楽曲が煌めいている。
MVなんかもいつも余分に感じる。それほど楽曲の強度が強い。

『サンボマスターとキミ』までの中で好きな曲11曲(10曲にしようと思ったんだけどこれ以上はどうしても減らんくなってしまった)。
"さよならベイビー"
"二人ぼっちの世界"
"絶望と欲望と男の子と女の子"
"心音風景"
"君を守って 君を愛して(きみのためにつよくなりたいバージョン)"
"僕の好きな君に"
"きみはともしび"
"very special!!(アルバムバージョン)"
"21世紀少年少女"
"生きたがり"
"私をライブに連れてって"


サンボマスターのルックスが勿論好きだ。


今日、やっと去年出た現時点での最新アルバムの『サンボマスターとキミ』を聴いたんだけど、やや抑え目な『ロックンロールイズノットデッド』、様々な方法論を試している『終わらないミラクルの予感アルバム』から迷いが晴れたような、ストレートにギター鳴りまくり叫びまくりの、それでいて解放感もあり、メリハリの効いたアレンジのすばらしい内容だった。
ラストの"私をライブに連れてって"はこう締めくくられる。

"今夜は宇宙征服するくらい踊ってやる 征服した宇宙はキミがもらってよ"
"どんなにクソみたいな日々が続いても
ダンスフロアは僕の革命を信じている
これ以上かなしみが 続かないように 世界中を爆音で祝福しておくれよ
わたしをライブにつれてって"

基本的に歌いたいことが最初から何も変わってない、15年それを続けていて、サンボマスターを最初聴いたときからたまにはそれがよく分からなくなったこともあったんだけど、結局今は大体が単純明快な正解みたいに思える。
いいバンドだな。
 

坂本龍一 『怒り オリジナル・サウンドトラック』 牛尾憲輔 『a shape of light 映画 聲の形 オリジナル・サウンドトラック』

今まさに公開中のふたつの映画の、独立した音楽作品として聴いても秀逸な二枚のサウンドトラックについて。

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怒り オリジナル・サウンドトラック
まずは『怒り』のほうから。
音楽を手掛けるのは"教授"の呼び名で有名な坂本龍一。イニャリトゥの『レヴェナント』でもサントラを作り、かなり「映画音楽の人」として存在感を増してきているところでの本作。
この『怒り』という映画は、あと二ヶ月何もなければ、邦画バブルであった今年の邦画の中でも最高傑作と言われる作品になると思うんだけど、この映画を評してよく「骨太」という言葉が使われる。
音楽から受ける印象もそれで、ストイックな佇まいの、今時珍しい位遊びのない「映画音楽」だ。全編をオリジナルスコアで構成し、歌曲を排し、サウンドに統一性を持たせ、全体を通して同一のモチーフを様々な形で繰り返す。

サウンドの基本的な構成は、ピアノ中心の管弦楽アンサンブルと電子ノイズが対位法的なやり方で配置されるもの。その拮抗関係の動きの中で音楽に波が生まれている。
序盤の"現場検証"、"無人島"、"ハッテン場"といった状況説明的なタイトルを付された曲群では基本的にノイズや不協和なサウンドが優位にある。
それが終盤になると、曲タイトルは"真実"、"怒り"、"許し"といった抽象的・テーマ的なものに変化しており、楽曲としては主題となるシンプルなモチーフが音の水面に浮かび上がってくるようになる。
"4音だけで構成されている"というこのミニマルなモチーフはしかし、この大きな映画を背負って立つに充分の説得力を持っている。

全体にまたがるモチーフがあり、それが様々な形をとって現われる、更にそれは例えば"猜疑心"-"信"、"怒り"-"許し"という相反するような題を付された曲の中で共有されている…この事は、この音楽が『怒り』の音楽である、ということの刻印に思える。
作中で、素性の知れない大西と都心で充足した生活を送るサラリーマンの藤田という二人のゲイカップルが出てくるのだけど、こんな会話をするのだよね。
藤田は行くあてのない大西を自分のマンションの部屋に寝泊りさせるのだが、釘を刺すように「オレはお前の事信用してないから。家にあるもんとか失くなったら、遠慮なく通報するからな」。黙る大西。「オレ、お前の事疑ってるんだぞ。何か言ったら」と藤田。大西、「……疑ってるんじゃなくて、信じたいんだろ。信じてくれて、ありがとう」。
ここに映画のテーマのかなりの部分が凝縮されていると思ってて…、つまり、人は本気で疑っている人に対して「オレはお前を疑っている」なんて警戒させるようなことを言わない。だからこの言葉の意味は「お前を信じたいから、裏切らないでくれ」。これ、言葉で言うからそうなわけじゃなくて、こうした感情って往々にしてこういう構造を持っていると思ってて。
つまり、人が人を疑うのは、人を信じたいから。人に怒るのは、人を許したいから。好きな子にちょっかい出しちゃうとか、あるいは遠慮なくぶっ叩くことによってこそ叩く対象を何よりも欲望してしまう人たち…とか、話をすごく卑近なとこまで落としてもいいのだけどさ。ともかくここでは真逆の感情がプロセスとして要請されている。
ここまで考えてみるとこの音楽がいかに精巧に映画をなぞって構成されているか?というのが分かるし、だから作品の重要な一部になっているのは当然なんだよな。そしてそんな強靭な芯が通っているからこそ単独の作品としても強い強度を持っている。

電子音とダブ処理的な加工、クラシックベースのアンサンブル等、現代音楽のエッセンス中心に構成されていて、その中でミニマルというのが重要な位置にある辺り、ヨハン・ヨハンソンによる『ボーダーライン』のサントラなんかも思い出させる。
同時にこれはここ最近の坂本劇伴の方向性そのものとも言えるから、その到達点的一枚と捉えてもいいかなと。
参加ミュージシャンの中にあって大きくフィーチャーされ重要な役割を担っているのが、教授の友人でもあるギタリスト/電子音楽家、Fennesz フェネスことクリスチャン・フェネス。アブストラクトな音響が主になる箇所では彼のサウンドを多く聴くことができる。



a shape of light 映画 聲の形 オリジナル・サウンドトラック
こちらはサントラとしては少々特殊で、サントラであると同時に電子音楽家agraphこと牛尾憲輔のアルバムでもあるという形。"a shape of light"というのはそのアルバムタイトル。
二枚組で、オリジナルサウンドトラックであるディスク1と、スポット、CM等で使われた音源を集めたエクストラサウンドトラックのディスク2からなる。この構成は聴くと納得で、劇中で用いられたディスク1のほうは音楽作品としての強い統一感がある。
"tre"、"inv"、"roh"...と延々並ぶ曲タイトルもこれがひとつの作品として作られているということを感じさせる。

ザ・フーの"マイ・ジェネレーション"のパンキッシュなベースソロに乗った映画のオープニングが終わると、一旦のクールダウンを経て入って来る劇伴がとにかく印象的だ。
ピアノのソロ演奏なのだけど、音が鳴り出した瞬間非常に驚いた。ピアノのハンマーやペダル、鍵が生むノイズが、演奏そのものの音を食うくらいの勢いで入っているのだよね。そしてこうしたピアノ曲が映画全体のサウンドのほとんどを成し、満遍なく用いられている。
そこにリヴァースディレイのようなエフェクトを絡める、アンビエントドローンを敷くなどの加工、そうした曲以外でも用いられているのは荒くツギハギのループやグリッチ的な音で、この手のアニメ映画ではまず聴かないようなノイズサウンド。
大体が録音もきわめて強い部屋鳴りを残したこもりの感じられるもので、こういう音源は映像になじまないから普通は使わないのだよな。
公式サイトのインタビューなんか読んでもノイズ・コンクレート・即興というタームが当然のように現れ、特にノイズについては何度も強調されることから確信犯的にこうした音を作っているということが分かる。古いピアノの内部にマイクを入れて録音しているなんてことを平気で書いてある。

なぜこうも実験的な音を全体に敷き詰めているのだろう?というのを考えると、やはりこれもある面ではこの映画の為に作られた音楽なのだということが見えてくる。
出そうとしている目的の音と、それを生み出すための機構の作動音が並置されていること。つまり、音の文脈が音響的に整理されずにそのままそこに放られているということ。
これは何なのだろう?と考えるときに思い出すのは、『映画 聲の形』の少し前に公開した『FAKE』だ。いわゆるゴーストライター問題で悪い意味で時の人となってしまった佐村河内さんに森達也監督が密着したドキュメンタリで、僕はわりと大真面目にこの映画は『聲の形』の双子の兄のような映画だと思っている。
ふたつの映画に共通して用いられる中心的モチーフである聾について、この映画でもそれが一体何なのかということが描かれていくのだけど、そこでは結構当たり前のことが言われている。
視力0.2の人と視力1.5の人がいるように、聴こえないということも(聴こえる・聴こえない)の二項対立ではなく、グラデーションである。というかそれは、正確にはひとつのグラフの線上に表現できるようなグラデーションですらない。そうではなくて、"聴こえ"は個別の問題だ。
この事を映画の中で指摘されたとき、当たり前の事過ぎて僕は自分が恥ずかしくなってしまった。なんでこんなことが分からなかったのかと。
佐村河内さんは「音が曲がって聴こえる」という表現をするのだけど、"聴こえ"の表現としてなかなか分かり易い気がする。僕らは普段あまりにも当たり前に音の羅列を耳で捉えて脳でそのうちの必要分を束ね意味に変換しているけど、聴こえ方がその都度変化してしまうために、それらをひとつずつ手作業で順次消化していかなければならないとしたら。
その時に意味付けに基づいた音の優劣というのは消えて、膨大なノイズが意識の表面に立ち上がって来るはずだ。
このサントラが表現しているのはそれだ。
そしてここからは…映画を観てほしいのだよね。できれば両方の映画を。
アルバムの中で唯一三文字タイトルから外れる曲、バッハの"invention no.1 C dur"。何の仕掛けもないその演奏から引き継ぐラストの"lit(var)"ではアルバム全体を一気に物語にしてしまうような大仕掛けが待ち受けているけど、この曲が映画の中でも象徴的な使われ方をする。
ノイズ=ただそこに放られたカオスとしての乱雑な世界が一気にひとつなぎのものとして主人公の眼前に立ち現れる、そこでこの音楽は恥ずかしげもなくまたそれを宣言する。そんなこともう分かってる、何度も使い古されたそれを。
つまり、それでもこの世界は美しい、と。



なんか半分くらい映画の話になってしまったけどどちらもメチャクチャ素晴らしい映画であるうえ、とにかく音楽が最高でこの音楽を映画館の音響で味わえるのって本当幸せなことだと思うのでぜひぜひぜひぜひ劇場で観てほしいです。観られるうちに。
 

Praed 『Fabrication Of Silver Dreams』

『イレブン・ミニッツ』という映画を観た。
一見全然関係ない人々の運命が17時からの11分間のうちに猛烈な勢いで絡み合っていく、その様子を様々な角度から撮ったものを巧妙に組み合わせて作ってある映画で…ただこの手の運命が奇妙に絡み合って系の話のなかでこの映画が独特なのは、登場人物ごとの属する現実のリアリティのレベルなんかバラバラなまま、暴力的に運命がカタストロフに向かって収斂していくということなのですよね。
ある人の映像は携帯カメラで始まり、ある人の映像は監視カメラで始まり…俯瞰も主観も虚構も現実も呑み込んで、ある一点に爆縮させてしまう。そう、運命というのは爆縮の形をとっているものなのかもしれないと。その瞬間には無意味でばらばらのものに思えても、交差するある一点を経たあとの地点から見ると、すべてがそこに向かって精密に組み立てられていたとしか見えなくなる。考えてみれば、人によってある時間が濃密だったり淡泊だったりするのに─感じている時間の長さは違うのに─、にも係わらずある瞬間を共有しうるというのはなかなか不思議なことですよね。スーパーフラットっていうのかなこの感じは。
様々なドローン、チャタムめいたギターミニマルが都市のノイズと暴力的にミックスされる音響もすばらしく、たいへんおすすめ。


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謎のお面とアラビア文字のインパクトが凄い。
アマゾンで買えるっぽい

Praed プレイドはスイスとレバノンの混成二人組ユニット。過去には来日もしている。
Paed Conca - clarinet, electric bass, electronics, percussion
Raed Yassin - synthesisers, electronics, laptop, vocals
こうして書いて気付いたけど、ユニット名、単に二人の名前くっつけただけだな…。
で、この二人に加えて今作は3人のゲストと共に制作されている。
Fadi Tabbal - electric guitar
Sharif Sehnaoui - electric gitar
Khaled Yassine - riq
riq リクというのはタンバリンの一種だけど、侮るなかれ、なかなか表現の幅の広い楽器だったりする。youtubeでriq soloとかで検索するとわりとすごい映像出てくるので興味ある方はどうぞ。

アルバムは2016年作、DJ SniffやSun City Girlsなども巻き込みながらアラビックビートをインターナショナルに発信するレーベルAnnihayaより。
全5曲51分。

ホームページ見るとpsychedelic shaabiとか書いてある。shaabi シャアビというのはアラブの伝統的な民間舞踏の音楽らしい。
が、それは闇鍋の鍋の部分に過ぎないというか。シャアビの鍋を用意しつつそこにもっと今様のテクノやら、フリージャズやら、サイケやら、ドカドカ叩き込んでいる感じだ。
ライヴの様子とか見るとかなりムチャクチャで、(2人ともマルチプレイヤーなので)楽器演奏して重ねつつ、歌い踊りのワケ分からんパフォーマンス。
ワケ分からんのだけど、重要なのは、難しくもシリアスでもなく、キャッチ-で楽しい音楽ってことだろうな。ポップでは全くないが。
なんかこううまい事言おうとしてきたけど、やっぱこれアレだよ…。
『インドカレー屋のBGM』の超強い版。
『インドカレー屋のBGM』という素晴らしいCDシリーズがありまして、まぁタイトル通りの内容なんだけど、そのめっちゃパワーアップしたヴァージョンというのがざっくりしたイメージ。
あ、勿論これが文化人類学的には相当乱暴な言いぐさだというのは自覚していて、正確にはこういうアラブの音楽とラーガみたいなものって全然別なものなんだろうけど、西洋音楽とは根本的に違うエキゾチックな音律(なんかこの言い方もまた良くないな)という意味でそう感じられるということで。

闇鍋と書いた通り、そこに普通に考えれば到底溶けないような要素が片っ端から突っ込んであるのがこのアルバム。
無数のループを重ねた音は常に狂騒的で、パーカッションやハンドクラップの複数のリズムが時にポリリズムを成しながら重なり合い、蛇行する旋律のギラギラしたシンセの一群が中心を成して、歌い上げるサックスが乗っかり、荒れ狂うフリージャズギターまで叩き込まれ、しまいにゃなんか叫んでるおっさんまでいるという、もうそりゃムチャクチャな音。
前もこんなこと書いた事あったけど、祭り。祭りだ。おらが郷里(くに)さ祭り思い出す、ハイパーニュートラディショナル盆踊り2.0だ。

カットハンズの音楽なんかも民族音楽を参照したビートミュージックではあるけど、こっちはテクノロジーや別要素の取り込み方がハチャメチャにワケ分かんない方向への拡張に向かっちゃってる感じがより現地感覚というか。
やっぱこういうのめっちゃ好きなようですね僕は。
25分超えの"The Odessy of the Blue Flies"は圧巻。


続きにライヴ映像

 

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