Cristian Alvear / Cyril Bondi / D'incise 『Stefan Thut 'ABC, 1-6'』

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art into life

バンドキャンプもある

持続音系に偏ったラインナップの印象があるMoving Furnitureから最新リリース、コレ系でお馴染みの三者が現代音楽家Stefan Thutの2012年のスコア"ABC, 1-6"を演奏したもの。
47分20秒1トラックの内容。

Cristian Alvear - guitar
Cyril Bondi - percussions, objects
D'incise - laptop

無音。
モーターの振動音。
無音。
無音。
スネア表面の擦過音。
無音。
コンタクトマイクのフィードバック。
無音。
無音、無音。
弦を一本弾く音。
無音……。

無音の時間が半分か、それよりすこし少ないか?それくらいの配分に感じる。
もともと色のない、虚無的な、反(半)-音楽とでも言いたくなるようなアプローチの共通する3人だけど、それにしたってこの音源は異常という気がする。


D'inciseによるモディファイの施されたギターを演奏するCristian Alvear


D'incise、Cyril Bondiを含むセッション


Stefan Thutによる別の曲の演奏


この演奏に用意された膨大な無音の時間を使って、こういうことを考えてみる。
50分の演奏が収められているCDがあるとする。
この演奏は、あるタイミングでピアノが一音弾かれるだけのものだ。
これは音楽だろうか?
言い換えれば、このCDに音楽的な価値はあるだろうか?
モノとしての価値なしで、その音源がデジタルリリースされていたら、買いたいと思うだろうか?

二音だったらどうだろう。
三音だったら。四音だったら……
これが一分に4回くらい鳴っている、というところまでくると、(価値を認めるかは別として)多くの人に「これは音楽だ」と同意が取れるんじゃないか。

少し違う位相から見てみる。
無音に音楽的な意味を見出すということの一番分かり易く解釈は、それが休符である、とすることだ。
ところで、休符があることの条件は、テンポないし、それに準ずる指示があることだ。縦軸-音程と、横軸-音価があって、休符であっても後者は要求する。
テンポがあることの条件は、二音以上の実音符が存在していることだ。
速度は、二点の測定点があって定義できるもののはずだ。

この視点をそのまま縦軸-音程に移植してみる。
単一の音と、音楽の違いは何か?
最初に一音だけの音楽というものについて考えたけど、もう一度その地点に戻ってみよう。
一音だけの音が音楽になるためには、どんな条件を付せばいい?
たとえばピーという単一の発信音が鳴っている。これを音楽とみなすことは難しい。
そこに違う音程のもう一音が重なればどうか?
さらにもう一音。
同一の持続音が数十分鳴り続けるようなドローンの音源を僕も好んで買うけど、それは単純にはこういうものだと言えるだろう。

二点の音が配置されている。リズム。
二音が重なっている。コード、とか、ハーモニー、とか呼ぶ。
"音楽的"であること、"音"が"音楽"であるとみなされること。
お察しの通りで、音が別のある音との関係の中で相補的なやり方で互いを位置づけあっているとき(同じ文脈の上に、あるいはその文脈を構成するために、相対的なものとして配置されているとき)、それを"音楽的"と呼ぶのではないかな?あるいは、それがミニマムな条件なのでは?という風に僕は考えている。


面白いので、最後にもう少しだけ別の問題も立ち上げておこう。
単純にポップソングで考えてみてほしい。
35分のアルバムがある。68分のアルバムがある。
ギター弾き語りのアルバムがある。バンドにオーケストラまでついて音のギチギチに詰まったアルバムがある。
同じ値段で売っている。
これって、何かおかしくないか?
良くない音楽、良い音楽、みたいな主観の価値づけでなくて、それは明瞭な基準のはずだ。
このことは、やはり無音であるとか音の欠けにたいして、一般的な考え方としてある種の価値を見出しているということなのかなと。
で、それを延長していく…ギターの弾き語りのほうのコードの構成音を一音づつ減らして、歌詞も絞っていく…と、上のほうで書いたような一音の音楽というものに近づいていくわけ。
これってフォーマットゆえのおかしさというか、バンドキャンプなんかでアーティストが好きに自分の音楽に値段をつけられるようになったことで気付いたところでもあるのだけど…。


なんて言っていると今回取り上げているアルバムは終わっていたのだが、このアルバムの面白いところをもうひとつ見つけた。
終わっていることに気づけない。
それが音楽が終わったという無音なのか、演奏の合間に設置された無音なのか、2分程経ってやっと気づく。
このことは、自分でセッションなんかしていてもよく思うのだけど、即興演奏の終わりについての感覚を思い起こさせる。
音の余韻が消えるタイミングで演奏の当事者たちが顔を見合わせて頷きあうような場面を、この手の音楽が好きな人なら見たことがあるはずだ。
演奏の終わりというのは、複数の音=演奏者たちの相補的な関係の中で定位された焦点のようなものなんじゃないか。


それぞれが他の音と同線上に配置されることを拒否するような無意味に放られた音たちの中で、だからこそその終わりだけは強く取り結ばれた同意なのではないかな?と想像する。
静かな部屋で聴いてほしい一枚。
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