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プリンとカルボナーラと私、それから京アニと音楽について

何を言おうが虚ろな感じがして、ツイッターにも触れずにいたけど、ここ数日のことを書く。


あの7月18日のあと、体調を崩してしばらく寝ていて、治ってから何本か映画を観に行ってみたものの、まるで感情が動かない。
ただその事自体には少し悲しくなって、それだけに映画を観るのも何だか辛かった。

しばらくして、ネットフリックスで『クィア・アイ』の新シーズンの配信が始まった。
料理やファッションなど様々な分野のプロフェッショナルであるアメリカのゲイの5人組が、人生に行き詰まった人々の助けを求める声に応じるというリアリティ番組。
それを流しっぱなしにしていると、負傷で除隊になった帰還兵が主人公のエピソードが始まった。
除隊で自分のすべてが否定されたような欠落感と劣等感に苦しんでいて、自分をごまかすように仕事に打ち込んでいる。
この男に料理担当のゲイのアントニが教える料理が、カルボナーラ。

とても簡単そうに見えて、作りたいと思った。
にんにくを潰して刻み、パスタを茹でておく。
バラしたブロックベーコンをオリーブオイルで炒める。
これはパンチェッタの代用。
適当なところでにんにくを入れる。
香りがたったら火を弱めて牛乳を注ぐ。
半欠けのコンソメを入れ、溶けたらピザ用チーズを加える(パルメジャーノの代用)。
全体が混ざったと思ったら火を止めて、卵黄を加える。
ここからは手早く、卵が固まらないうちにかき混ぜる。
皿にあけて黒胡椒を好きなだけ振り、完成。

牛乳とチーズ、卵黄のバランスによって様々に様態が変化するので、最初はうまく出来なかったけれど、三回も作れば思い通りになった。
少し飽きたらペペロンチーノを作った。これは完全に手抜きで、パスタを鷹の爪とにんにく、オリーブオイルで炒めただけの代物。

まあそんな風にしていると、ある時点で牛乳の賞味期限が近づき、また卵の個数もだぶついてきた。
この組み合わせから連想したのが、プリン。
プリンを作ろうと思った。
何が悲しくて独居中年男性がプリンを?と思うのだが、自分でもよく分からない。
よく分からないけれど、あえて述べるなら、女子だから、だろうか。
私はプリンを作る。
プリンを作るのは女子である。
すなわち、私は女子である、が成り立つ。
デカルト的な問答というと何か大袈裟だけど、現にしてそう考えるほかない。

プリンはシンプルだ。
でありながら、プリンシプル=基本・根源という通りで、プリンは全てに通ず。
プリンなくしてローマは成らず。
熱燗用グラスでも何でもいいが、耐熱の容器に、牛乳、砂糖、卵黄を入れ、よくかき混ぜる。
そして、これは意外と思うかもしれないが、半欠けのコンソメを加える。
もちろん嘘だ。
とにかく、牛乳、砂糖、卵黄(それからあればバニラエッセンスを数滴)を撹拌したら、ラップをかけてレンジで500w2分半。
取り出したら、濡れたタオルでくるむでも、近所の河川にさらすでもいいが、とにかく冷ます。
常温に戻ったら冷蔵庫へ。
ツイッターをだらだら眺めてから風呂に入り、あがる頃には固まっている。

なんとなく砂糖を加熱する工程が怖くてカラメルを省いたので、あの独特の苦味とのコントラストがなく、プリンはただ甘かった。
薄っぺらな味とも言える。
でも、この世界にも少しは、ただ甘いだけのものがあってもいいなと思った。
挑戦とか努力がまっすぐに報われたり、打算なくただ素直に誰かを好きだと思えたり、そういうことが。

自分にとって様々なきっかけになった『AIR』、それから『けいおん!』、震災の最中にあった『日常』、コメディチックな萌えアニメでありながら明確に分断の時代へと向けられていた『小林さんちのメイドラゴン』、そしてあの『聲の形』は、やはり忘れられない。
『聲の形』が衝撃的だったのは、京アニ的なもの=萌えアニメの言語を用いて、確かに「映画」が紡がれていたこと。萌えアニメが自律する「映画」になっていたこと。
限られた文化の中でのみ通ずると思えていた言語が、唯一無二のユニークな手法…ノイズミュージックを用いて「聴こえ」の多様なあり方を鑑賞者の感覚にストレートに訴えるものとして提示する…を経由して、映画という一段階上の普遍性にアクセスする。
言語を一段階上の普遍性へと昇華する。これを喩えて、こう言ってもいい。
京アニは萌えアニメを音楽にした。


『クィア・アイ』で、自分の作ったカルボナーラを食べながら、帰還兵の男はこう言っていた。
「マックに行かず、ほんの10分か15分の時間をかければ、努力は実る」。
料理はシンプルでいいと思った。
自分でつくったものが旨い、という、直流回路で自己肯定される感じ。
落ち込んでいるときにはよく効く。
登山も同じようにいいと思う。
登山の好きなところは、シンプルに即物的に、憧れた場所に辿り着けるということ。
山容を見上げるようなところに立って、やべえすげえ景色、あんなとこ行けるのかな、オレ、って思ったその場所に向かって、一歩一歩進む。
それで実際に、そこを踏む。
ごく単純な自己肯定の回路がある。
その混じりっ気なさ、直線的な構造が好きだ。
オマエ凄いよ、って自分に言う、そこに変な余地がないっていうのかな。
だから今日、無心で登ってるとき、なにか有り体な言い方だけど、単純に癒されている感じがした。





瑞牆山は曇りで展望は無し。
ただ目前の光景だけでも圧倒されるスケール感がある。
良い山。
山頂までは天気が持ったけれど、下りは少し雨に降られる。
高いお守りになっていたレインウェアが初めて役に立った。
金峰にもかなり興味があって、いつか天気の良い連休があるなら山頂付近で一泊して二日がかりで登りたいと思っている。

長い梅雨がようやく明けるそうなので、夏は日光の女峰、河口湖の十二ヶ岳、尾瀬の田代山~帝釈山か至仏山、もし連休があったら焼岳、宇多田ヒカルが登っていたアサヨ峰とか、どこか二ヶ所でも三ヶ所でも行ければと思う。
まだ計画だけだけど。
いつもこの時点では「いや、オレ、こんなの登れるの?」って思ってて、でも実際にただ一歩一歩の積み重ねとして、山頂、来ちゃった、みたいなことが、登山の好きなところで。
繰り返しになるけど。


自転車のドミノ倒しに巻き込まれて動けなくなっている人を助けたり、夜道でぶっ倒れて気を失っていた人に救急車を呼んだり、最近なにかそういう場面が多いんだけど、っていうかこれは人知れず人助けしているのを自慢したくて書いているんだけど、たぶんそういうときにごく自然に動けるのって、山を登ってることの効用でもあって。
山って不思議なコミュニケーション空間で、そう、こういうことがあった。
鋸山に登ったときのこと。
山頂付近ですれ違った人に挨拶したら、怪訝な顔をしてこっちを見た後、目を反らした。
この鋸山って、麓から歩く以外にロープウェーでも頂上に行けるのね。
必然、山頂近くでは登山者とロープウェー利用の観光客が混ざってくる。
で、登山者って、すれ違うとき必ず挨拶する。
これには遭難時に他の登山者の印象に残ってるように、とかいろいろ理由があるんだけど。
でも、普通に平地だと知らない人に挨拶するのは変な人じゃん。基本的に。
山では自己責任が基本で、「連れてってもらう意識の人」って登山者の間では嫌われるタイプとは言うけど、実際に山にいくと、平地よりもよほど濃密な他人同士のコミュニケーションが生じる。
説教くさい話になってたら申し訳ないんだけど、ごく自然に助け合うみたいなことがある。
これで思うのが、山はMMORPGに近い空間だということ。
MMORPG的な空間に固有の面白さは、そこは基本的に、他人を助けることが無制限に許可された空間だということ、これだと思っている。
日常の中では非常にハードルの高い「人助け」という行為を、いくらでも、好きなだけやって良い、その快楽がMMORPGを駆動していると考える。
その余韻が平地に降りてもまだ残ることが、山に登ることの「良さ」のひとつだよなって思う。
で、他者を助けること以上に気持ち良いこと、ってそうそうない、っていうか、こう言ってよければ、他者を救うことを通して救われているのは実は自分の心である、ということを、今日また改めて感じていた。
いまこういう社会の、世界の中で、綺麗事だろって何回言われようが、それだけは普遍的に真だと思えるし、するべきなのはそれなんじゃないか、って何となく思っている。


ここまで読んで頂いてありがとうございます。


7月18日の事件で亡くなられた方々のご冥福をお祈りします。
また、被害に遭われ、現在もなお治療中の方々の、一刻も早い快復を願います。





山を降りると頭がすっきりしたような気がして、電車の中で書いていた山行の記録
今回はこれをもとに構成しました
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