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Bill Orcutt 『Bill Orcutt』

今日は『パターソン』という映画を観た。
ジャームッシュの最新作。この人の映画を僕は結構好きなのだけど、なかなか不思議な人だと思っていて、アート的と言われるにしてはとてもポップだし、メジャーと言われるにしてはニッチな作風。ベテラン映画監督だけどパンクス。毎回まるで違うものを作ってくるのに、観終わってみればジャームッシュでしかあり得ないと思わせる。


物語の舞台は実在の町、ニュージャージーのパターソンで、この町でバス運転手をやっている主人公の男は名前をパターソンという。
なんとも妙な設定だけどそんなところは他にもあって、例えば映画冒頭の朝のシーンでパターソンの奥さんが「わたしたちに双子の子供がいる夢を見た」なんて言うのだが、それからバスの乗客として、あるいは町中で、パターソンはとにかく双子をよく見かける。
で、面白いのは、この映画ではそのことには何の意味もないというところだ。なにかそういう奇妙な状況に陥ったのは何故なのか?というサスペンス/ミステリーにでもなりそうなものだけど、そんなことは全くない。
というか、言ってしまうと、この映画はまさに"なにも起こらない"映画だ。その「なにも起こらない」ということの内実の豊かさを描いた映画、と言ってもいいかもしれない。

映画は綺麗に7分割されており、月曜から日曜までパターソンの一週間をほとんど均等に描いていく。
パターソンの日常は概ねパターン化されている。だいたい同じ時間に起きて、朝食を食べて職場に向かい、昼になれば町のシンボルの滝の見えるベンチで昼食を取りながらノートに詩などを書きつけて、妻と夕食を食べると犬の散歩に行き、バーに立ち寄ってビールを一杯だけ飲み、眠りに就く。
驚くのは、映画はこのプロセスを、等しく順繰りに毎日捉えていくということだ。
ところが、それによって…同じく捉えることによって、同じことの、まったく異なる側面が浮かび上がってくる。

バスを運転していると前の方に座る乗客の会話が聴こえるが、そこに座る人間も、会話も、毎日違うものだ。バーでは夜をつなぎ合わせるように、バラバラのようでいて実は前の夜の続きというような人々のやり取りに遭遇する。家に帰れば、とにかくいつも新しいことをしていたい妻が、ある時は部屋の壁をペンキで塗っており、ある時は奇抜な具材のパイを焼いており、ある時はギターを弾いている。
そんなことがそこかしこに存在している。
毎日同じように生きて、毎日違うものに遭遇する。
パターソンはそれを詩にして書き留めておく。
もちろんそれぞれの差異は、「映画」「物語」として捉えたら「何も起きてない」の範疇なのだけど、その「何も起きてない」ということにはほとんど無限の有り様があって、子細に観察してみれば、うたになるほど豊かだ。


ディティール。
ディティールということについて考える。
自分の好きなホラー映画とか、日常系(思えばこの言葉ほどこの映画に似合うものもない)な萌えアニメとかさ、あらすじレベルに…人にこういう話って説明するようなレベルに…単純化すると、全部同じ話じゃんってのが多々あるわけ。
ただジャンルにおけるこの手のものを味わう方法ってそれではないわけよ。
それは日常系ってことで言うなら、一見同じ、他愛もない、どこかで聴いた話の細部が…道端に咲いた花の品種とか、いつものメンバーでの意味のない会話の話題とか、日々に紛れこむちょっとした失敗とか、家に帰る道、いつもと一本外れた通りに入ってみるようなこと、そういう細部こそが、むしろ本質なわけ。
おそらくそのレベルで同じものを描いている作品というのは余りないし、この手の作品の作り手はそここそが肝要だと分かってもいるだろうし、その微妙な差異を楽しむという視座において、外野席からは同じにしか見えない物ものが、固有の豊かなそれぞれとして立ち上がってくる。
というか、あらゆるものはそうなのではないだろうか?
自分の好きなノイズミュージックとかドローンとかさ、多分興味ない人からしたらみんな同じに聴こえるんだろうなってのは分かるし。
逆に自分からしたら車って世界に50種類位しかあるように見えないし、せいぜい色が違うだけだろみたいな、あるいは野球やサッカーの選手も全員同じことしてるようにしか見えないわけよ。
好き、愛情を持っているということは、その間の微妙な差異を豊かなものとして楽しめるっていう意味なわけ。
それをパターソンになぞらえて言うのであれば、他人からしたら何もない、毎日変わらない他愛のない日々を、そういう区切りの繰り返す連続体としての人生、世界なるものを、愛情をもって生きてみれば、そこには同じことの毎日の微妙な差異、つまり愛すべき=そこにその瞬間にしかない・かけがえのないものとしての・性質が立ち上がってくるのかもしれない、ということ。


音楽はこれを強く思わせるものがある。
我々はなぜ同じ曲を幾度も…それどころか自分の手で…演奏したがるのだろう。
すでに熟達した演奏者の、優れた演奏が残っているんだから、もうその曲の演奏が世界に新しく生まれる必要はないんじゃないのか。
この問いが的外れで馬鹿げていることはもう直ちに分かるはずだ。ここまで書いてきた通りで、更に突き詰めていうなら、音楽が「良い」「悪い」ということと、演奏が「うまい」だとか「へた」だとかいう事は何も関連性がないということになる。
僕はよく、音楽はそこに含まれているノイズのほうが本質、みたいな言い方をしてしまうのだけれど、それはこのことだ。
楽譜の通りに置かれている音なんてのはどうでも良くて、その合間をつなぐ音の震えやかすれ、譜面に現せないジリジリという空気の音、アンプに挟まったノイズ、外れた音、ずれた音。意図せずに…しばしば間違いと言われる…そこに現れている音こそがその音楽の固有性、かけがえのなさを担保する。それは再現不可能だ。
Bill Orcutt ビル・オーカットの2017年作セルフタイトル、『Bill Orcutt』は、このギタリストがカバー集をやっている、というゆえに、音楽のそんな性質が究極的に表現されている。
ここで聴かれる演奏たちは、確かにそれぞれの曲であることには間違いないのだが、それと同時に"この演奏でしかありえない"、固有の、"ここで録音されたこのテイク以外には存在しないし、二度とやってこない"、唯一のものとして響いている。
それはオーカットが…いや、ここでもう一度こう言っておこうか…オーカットだけが辿り着いた地点だ。
だからこのアルバムのタイトルは『Bill Orcutt』なのだろう。
"When You Wish Upon A Star"、"Over The Rainbow"、"Star Spangled Banner"…。
そこら中にある曲たちのここにしかない演奏たち。
本物の傑作。


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Bill Orcutt









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