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マリみて、とらドラ

マリア様がみてる 4th
第10話、キーホルダー。
前回の選挙話からバレンタインのイベントへのブリッジ的な話でした。
冒頭から祐巳さんが失恋したけど立ち直った人みたいな態度になっており、周囲の人が一様に困惑しています。その中でも祥子さまの妹煩悩というか姉バカぶりはひどいのですが、そんな彼女の発言が今回いちいちよかったですね。
「このごろ、いろいろなことが分かるようになってきたわ」
姉を通り越してマリア様目線になりつつある祥子さま。
「手を洗うのを忘れているわよ」
なぜかハードボイルド気味なツッコミを入れる祥子さま。
「読んだけれど、スルーしてたわ」
こんな今風な横文字使えたんだ?っていう。
しかし今回抜群に素晴らしかったのはやはり志摩子さんと乃梨子さんでしょう。バレンタインイベントで、どっちがカードを隠すかで若干もめる二人。志摩子さんがカードを隠したがらない理由は…。
「ただ、乃梨子の隠したカードを探したかっただけで…」
ごちそうさまでしてーーーーー!でしたーーーー!
このときの令さまの表情がもう完全に虚を突かれた顔になっています。画面の前の俺も同じ表情になりました。なんだこの嬉しすぎる茶番。
それに答える乃梨子さんはもちろん「わたしも、お姉さまのカードを探したかったな、って思っていて…」
もう二人ともそこで座って待ってて!オレ、婚姻届取ってくるから!
濃厚すぎる桃色空気に居た堪れなくなった由乃さん「お茶、入れ替えまーす」。
「瞳子ちゃんとどういう関係になりたいか考えているの…腰を据えて」という祐巳さんの今週の妄言のインパクトも相当なものでしたが、今回は完全に志摩子さんと乃梨子さんのバカップルぶりに持ってかれましたね。先週の「由乃さんのそういうところ、好き」に続き、志摩子さんフィーバーが継続しています。この人は薔薇の館のリーサルウエポンか。

とらドラ!
23話。進むべき道。
こちらはマリみてよりも一足先にバレンタインが訪れています。とらドラっておそらくちょうど一年間の間の話なんですね。今までの話を思い返して、最近の作品にあるまじきこの子たちの歩みの遅さに若干微笑ましい気持ちになりました。長いので続きで感想。
春田「ガッコは勉強するところじゃん」
能登「保健体育するところじゃねえの」
こいつらすげえかっこいいな。
進路話で、大河が進路調査票を紙飛行機にしてたじゃないですか。あるあるですよねこれは。俺の学校でも調査票食ってる奴とかいたもん。
前回に続き大人の強さが結構描かれたりしていて、ゆりちゃんの言葉もそうなんですが、すごいのはやっちゃんですよね。「大丈夫だよ、やっちゃんはスーパーお母さんなんだから」「よくあることさー またいいお仕事見つかるよ」。やっちゃんのセリフにいちいち泣きそうになってる俺です。
竜児と大河がバイトをしているシーンで印象的だったのは、亜美の描かれ方です。サングラスをかけているんですが、横顔のショットで横のフレームを描かずに目、というか表情を見せるマンガ的手法が使われています。ラスト近く、チョコを渡す際に竜児を正面から見つめる大河もそうですが、従来のとらドラだったら表情は描かれないだろうというようなところが描かれていますよね。これは竜児から、大河から、あるいは亜美からそれぞれお互いの気持ちが見えるようになってきているからでしょうか。
他にも面白い仕掛けはいろいろあって、大河がチョコを作るシーンが一瞬ありますが、ここで型がハート型と星型があったり。星といえば、即座に連想するのはクリスマスツリーの上についていたオブジェですね。壊れた星です。あれが何を表していたのかと考えると、なかなか面白いものがあります。ここで大河は「喜んでくれるといいな、みんな」と呟きますが、これは話の最後で重要な問題となって現れてくることです。

ラスト、大河がチョコを渡すシーン。「喜んでくれるといいな、みんな」。みんなという問題。「欲しいものを欲しがれない弱さを人のせいにする奴じゃないって信じてる」とみのりんが言いますが、優しさは弱さかという問題です。つまり、愛だとか恋だとか、そういう「好き」っていうのは、「みんな好き」という形では成り立たないわけじゃないですか。「あなたを愛している」という言葉があるとして、これをタレントがテレビカメラに向かって言ってお茶の間に発信したら、この言葉を本気で信じ込む人はいない。説得力が全くないわけです。「好き」という言葉の意味が本質的には「(他のものより)好き」という意味だ、とまでは言わないとしても、それが成立条件になっている可能性はある。『そらうた』というエロゲーがあって、この作品でもアフターストーリーで主人公の姉が椅子とりゲームに例えて「幸せの椅子に座れるのは一人だけ。選ばなきゃ」というようなことを言うわけです。
その人固有の属性なんてのは、その人がその人である、というトートロジーしかない。つまり、「誰々が男だったら、誰々が宇宙飛行士だったら…」式の仮定はあらゆる形で成り立つわけで、属性というのは大概代入可能です。唯一想定不可能なのは「(誰かx)が(誰かx)でなかったら」という仮定だけでしょう。つまり、人を好きになる、ということの根拠は究極的には、無い、わけです。にもかかわらず「誰か」を選ばなければいけないということ。これが「好きの残酷さ」ですな。
「喜んでくれるかな、みんな」。誰でも、ではなくて、誰か、ではなくてはいけないということ。この問題の前で大河的に「みんなの幸せ(俺が「温室」と呼んでたのは、このことです)」に拘泥するのは仕方のない態度でしょう。というか、少し前まで、この話の登場人物は皆これだったわけです。そのために傷ついてきた。
こうしたことが明るみに出すのは、「好き」というのは結局「誰かを想う」、ということなのではなくて、「自分の想い」である、という、シンプルでしかし残酷なことです。「誰かのために」なんていうものが本当の想いなのか、ということが疑わしいわけです。だからみのりんは「自分の幸せは自分の手で掴み取る」と言うわけです。
この、優しさから決別する、ということは、ラブコメが普段目を反らしがちなことですよね。誰も選ばない、ということで温室を保持する。だからその残酷さを切り出した上で、やっぱり選ぶことも残酷なんだけど、人を好きになったりってそういうことじゃないかなぁ、みたいなことをとらドラは描いているんじゃないでしょうか。
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